今治地方の伝説集

今治地方の伝説集 一覧

一.神仏に関するもの

1.郷のお地蔵さん
2.浜のお地蔵さん
3.鳥越のお地蔵さん
4.あごなしのお地蔵さん
5.親子のお地蔵さん
6.円照寺の乳地蔵さん
7.真光寺の延命地蔵さん
8.比留女地蔵さん
9.七地蔵さんのいわれ
10.間のお地蔵さん
11.火よけのお地蔵さん(古寺のお地蔵さん)
12.五十嵐の虚空蔵菩薩さん
13.四村のさえの神さん
14.平家にゆかりのある石仏さん
15.乗禅寺の観音さん
16.観音さんの助け
17.龍登川と観音さん
18.高橋の馬頭観音さん
19.お灸をすえる凪見観音さん
20.別宮の阿奈波神社の由来
21.八幡渦と大浜八幡神社の由来
22.柿原霊神の由来
23.青木社の由来
24.馬神社の由来
25.権現山の稲荷神社の由来
26.神像と遊ぶ牛飼いの子供
27.龍神社の海中の鳥居
28.泰山寺の由来
29.常高寺の由来
30.満願寺の金比羅堂の由来
31.石中寺の由来
32.三十三年に一度今治へ帰った仏像
33.海中出現の阿弥陀如来
34.不思議な梵鐘と二大明王

二.人物に関するもの

35.須佐之男命<すさのおのみこと>と旧乃万村
36.虎退治をした若彌尾命
37.長慶天皇と牛馬
38.鉄人退治と越智益躬
39.南朝の忠臣脇屋義助
40.強力無双篠塚伊賀守重広
41.四国一伝流南葉一本斉
42.龍門山城主武田信勝の最期
43.槍の名人田坂槍之助
44.仏さんに閉門を申しつけた河野源六
45.忍者・川路小兵衛
46.弟子に早変りした源吾師匠
47.菅原道真と網敷天満宮
48.菅原道真と碇掛天満宮
49.藤原佐理卿と神額
50.弘法大師と御加持水
51.弘法大師と青木のお地蔵さん
52.弘法大師と食わずの芋
53.弘法大師と破られた蚊袋
54.法力を使った頓魚上人
55.清水の舞台から飛び降りた隆賢和尚
56.雨ごいに成功した光範上人
57.随転和尚の入定
58.風変わりな東吟和尚
59.気骨の人実雄上人
60.消えた鴨と自覚法師
61.あめ買い女と学信和尚
62.河上安固と蒼社川
63.治衛門と今治城
64.麦田に散った五人主様
65.嘆願書に命をかけた八木忠左衛門
66.村人にかゆ弁当をすすめた越智孫兵衛
67.山路村のために尽くした橋田久兵衛
68.綿花に命をかけた指切りの山本九郎兵衛
69.芋地蔵になった下見吉十郎
70.豪傑でとんちにとんだ権八さん
71.大力の吉蔵さんとかじ取り
72.殿様の奥方を背負った豪傑男
73.山城姫の最期
74.お産の神、鷹取殿
75.岡部十郎親子の最期
76.二人の仲を取り持ったまったけ狩り
77.直助の悲恋
78.桶底に消えた良介
79.五郎兵衛と太鼓
80.馬の急死をあてた吉山権七
81.紀州の人の墓

三.樹木に関するもの

82.天皇松の由来
83.三本松の由来
84.阿方の一本松の由来
85.馬島の日向松の由来
86.根上がり松の由来
87.てんぐ松の由来
88.千疋峠・仏々峠の桜
89.起き上った桜の木
90.ほうき桜
91.楠の大樹

四.石に関するもの

92.大神宮さんの大岩
93.膳椀を貸してくれた大岩
94.雨乞いの石
95.松たけ石・夜泣石・大亀石
96.今治城の石

五.山に関するもの

97.衣干山のいわれ
98.唐子山のいわれ
99.近見山のいわれ
100.夫婦山のいわれ

六.動物に関するもの

101.蛇越しの池
102.比岐島の大蛇
103.平市島の大蛇
104.矢田の蛇池
105.八丁の柑子さん
106.八つに切られた龍
107.うわばみ退治
108.井戸奥の大蛇
109.神供寺の狸
110.東禅寺の狸
111.梅の木狸
112.柿の木狸
113.ノボリ(幟)狸
114.お産狸
115.目だけ出したお高祖狸
116.榎狸
117.大楠と3匹の狸
118.明堂さんとお袖狸
119.鶴吉大明神
120.片目の鯛と狸
121.狸の返礼
122.自殺のまねをする狸
123.浜子をだました狸
124.豪傑を坊主頭にした狸
125.須賀の森の坊主狸
126.病馬に効く薬を届けたえんこ
127.骨つぎを伝授したえんこ
128.幻の動物かわうそ
129.大だこの足とり
130.犬塚のいわれ
131.波止浜塩田と潮止さん
132.馬島開発の由来
133.首なし馬

七.その他

134.茶堂のいわれ
135.鯨山と馬越の由来
136.桜井の石風呂の由来
137.馬島の檜垣姓の由来
138.岩戸漁法の由来
139.蛸釣り陶器のいわれ
140.桜井のわん舟の由来
141.鶏島(福島)のいわれ
142.壮大な今治藩主の墓
143.首立て松、地獄橋
144.僧都の井戸と神宮
145.湊の落武者の井戸
146.庚申会と三尸の虫
147.若者とお婆落とし
148.のれんをかやと間違え、海に飛び込んだ侍
149.坂本の山びと
150.赤岩の化け物
151.ちょうちんで助かったお百姓
152.祇園さんの奇習
153.和霊さんの奇習
154.三種のお守り

1.郷のお地蔵さん

昔、ある庄屋の女中さんが庭で仕事をしていると、一羽の勇壮なタカがどこからともなく舞い降りてきました。
女中さんは、これは珍しい立派なタカだとほうきでもってつかまえようとしましたが、誤ってその首を押え殺してしまいました。このタカは、来島山の城主がタカ狩に使っていたものでした。このことが、城主の耳にはいらずにはおりません。城主はたいそう怒って打首のお仕置きを命じました。たかがタカ一羽のために、あたら若い命を捨てねばならない羽目におちいったのです。いよいよ、打首寸前ということになりました。しかし、この女中さんは少しもおどおどする様子もなく、じっと両眼を閉じて平然としておりました。この場に立ち合っていた城主や役人は、不思議に思ってそのわけを尋ねました。

女中さんは、「私にはいつもはだ身離さずつけている守り本尊のお地蔵さんがいます。すべてをこのお地蔵さんにお任せしております。」と言って、お地蔵さんをふところから出して、うやうやしく伏し拝みました。役人が刀をまっこう上段にかまえましたが、どうしたことか手がわなわなふるえて切ることが出来ません。城主は、お地蔵さんの不思議な威光に驚き、感激して刑のとりやめを命じました。このことがあって後、城主は、このお地蔵さんを厚く崇拝し、お地蔵さんをお祭りする本堂を建立し、「来島山地蔵院附嘱寺」と名付けました。
 このお地蔵さんは、惜しいことに昭和5年(1930)に火事で焼失しましたが、その後、すぐもとの場所へ石のお地蔵さんがつくられました。なお、このお地蔵さんは、このあたりの人たちからも「郷のお地蔵さん」と親しまれており、年に二回の大法会(1月23日と8月23日)には、大勢の参詣人でにぎわいます。お地蔵さんは、肩のあたりから下に水が流れるようになっており、この水がとても目にご利益があるといわれ、別に「清水のお地蔵さん」とか「目のお地蔵さん」と呼んでいます。

所在地:今治市郷本町

2.浜のお地蔵さん

喜田村の石風呂の海岸に、やさしい顔つきをした2つのお地蔵さんが、瀬戸の海を静かに見つめています。このお地蔵さんは、浜のお地蔵さんとか、石風呂のお地蔵さんといわれ、土地の人々の尊信を集めています。古い方のお地蔵さんは、文政5年(1822)、新しい方のお地蔵さんは、大正11年(1922)に、それぞれが作られており、

このお地蔵さんにまつわる話は、古くから地元の人たちに語り伝えられています。江戸時代の昔、広島県の能地のある娘さんが婚礼をひかえ、調度品をそろえるため、兄の船頭で、母親と一緒に、今の東予市の三芳へ買物に来て帰る途中、風波にあい船が転覆しました。兄は、喜田村と東村の境の海辺に泳ぎ着きました。しかし、沖の方で波間に浮きつ沈みつしている母親と娘さんの姿を見た兄は、何とかして助けようと、また沖に出、三人とも帰らぬ人となってしまいました。後日、その遺体が喜田村の浜に上がりました。それまでにも、よく喜田村や東村の浜で遭難した人たちの遺体が上がるので、村人たちはお地蔵さんと建立して、てい重にお祭りしました。古いお地蔵さんがそれです。以来、村人たちの手で供養が続けられ、旧暦の7月24日には、このお地蔵さんの前で、盆踊りをする習わしが伝わっていました。なお、この3人の遺体を身内の人に引き渡す際に書かれた証文が、今もって喜田村の原の小沢宇之輔氏方に残っています。─藩政時代のこと故、他藩の者の死体引渡しが厳重であった様子がよくわかります。─
 また新しいお地蔵さんは、地元のある人がなくなってその供養のため、つくられたといわれています。─他に、別の所に祭られていたのを、この箇所に一緒に安置したのだという説もあります。─
 この2つのお地蔵さんは、海難防止の役目をしており、その後、この喜田村の海岸では、事故の発生もほとんどなくなったとか、特に子供の水難は、全然起こってないということです。
 このお地蔵さんは、赤子のために乳を授けてくれたり、熱病をいやしてくれるのに大変ききめがあるとされ、遠近の人々の信仰をあつめているといわれています。
 古老の話では、乳の方は、「子供が生まれましたら、必ずよだれかけを差し上げますから、どうか乳をお授け下さい。」とお願を掛け、後日その約束を果すとよいとのことです。
 熱病については、「お盆には踊りますから熱を下げて下さい。」と言って、お願を掛けるとよいとか。
 真偽のほどは別として、今も2つのお地蔵さんには、よだれかけがきちんと掛けられています。そして、いつも、だれかの手で花が供えられています。また、先に述べたようにこのお地蔵さんは、踊りがお好きだと見え、旧暦の7月24日には、お地蔵さんの前で地元の人が盆踊りをしてにぎわっていました。最近は8月のお盆の14日、15日にこの近くの浜辺で喜田村の有志の人たちが盆踊りをしています。このお地蔵さんは近頃は少し位置が変わっています。

所在地:今治市喜田村

3.鳥越のお地蔵さん

五十嵐の鳥越に、俗に鳥越のお地蔵さん(正式には鳥越地蔵尊といっています。)と呼ばれる3つのお地蔵さんがあります。このお地蔵さんには次のような悲話が秘められています。
昔、八幡山の近くの山の頂に城下塔(玉川町にあり、城の塔ともいいます。)という城がありました。

ある時、戦争が起こり、城主や家来の奮戦健闘も空しく、敵の猛攻にあって城を落とされてしまいました。城主は愛する妻と2人の娘を残して、自害してしまいました。妻と娘たちは、父の霊を慰めながら人目をしのんで、さびしい毎日を送っていましたが、傷心のあまり病の床に倒れました。そして、3人ともこの世を去ってしまいました。─一説には、お姫さんが落城の際自害したともいわれています。─あわれに思った村人たちは、お地蔵さんを作って、てい重にお祭りしました。
 このお地蔵さんは、なんでも願いごとをかなえてくれるとか。特に目と腹にはご利益があるといわれています。近郷近在はいうに及ばず、松山や西条、新居浜方面からのお参りもあるそうです。

所在地:今治市五十嵐

4.あごなしのお地蔵さん

寺町の大仙寺(曹洞宗)に、あごなしのお地蔵さん(正式にはあごなし地蔵尊といいます。門前の石碑には、無腮地蔵尊と書かれています。)という、とてもやさしい顔つきをしたお地蔵さんがあります。このお地蔵さんは、嘉永元年(1848)5月6日、今治藩士の深見利兵衛(深見正廣ともいいます。伯方町の木浦塩田の開祖で、江戸廻船など海運業にも功績があった人です。)が、隠岐(島根県の隠岐諸島)からご勧じょう(霊を移してお祭りすること)したものといわれています。このあごなしのお地蔵さんは、平安時代の昔、博学で詩や文章にすぐれた小野篁(平安時代の代表的書家、小野道風は孫に当ります。)が、大使藤原常嗣と争い、隠岐へ流された時に崇敬したもので、たいそう由緒あるものとされています。

篁が、このへんぴな地で歯痛で長い間苦しんだことがありました。ところが、不思議なことに、歯の痛みを止めてくださいと、お地蔵さんを一心に伏し拝むと、痛みがかき消すようにとれたということです。このことがあって以来、あごなしのお地蔵さんは、歯のほかに、口の中の病にはすべて霊験あらたかといわれ、のどの悪い人のお参りも多いそうです。
 お地蔵さんが、歯痛やのどの悪い者の身代わりになったので、柔らかいものを差し上げるのよいとされ、当地では願掛けの際には、豆腐一丁を上げるというしきたりが残っています。現在の大仙寺のあごなしのお地蔵さんは、太平洋戦争で戦災にあい、新しく建てられたもので、ひところほど参詣者はいなくなりましたが、それでもぼつぼつ願掛けをする人もいるとのことです。
 なお、境内に長尾秀子という人の「国の為身もすこやかに思ふこと のぶべき口を守りたもふよ」という歌碑が建っています。

所在地:今治市本町

5.親子のお地蔵さん

『石童丸』は、出家した父を尋ねる哀話の主人公として、歌舞伎、浄瑠璃、謡曲等でひろく知られている人物です。ところで、この石童丸と父親の苅萱道心が、善光寺如来の導きにより刻んだ親子のお地蔵さん(正式には親子地蔵尊といいますが。)が、長野市の往生寺(浄土宗善光寺から西北約1キロほどの所にあります。)にありますが、別宮町の高野山別院(真言宗)の境内にある地蔵堂にもお祭りされています。

この地蔵堂にお祭りされている親子のお地蔵さんは、先住の谷本忍雅氏が、今から40数年前に、夢のお告げがあって、長野市の善光寺(大勧進=天台宗・大本願=浄土宗)よりお迎えして祭ったものだといわれています。
 この石童丸の話は、有名な話なので皆さんもよく知っていると思います。多少筋が違うものもありますが、大同小異のようですので次に参考までにあら筋を述べてみましょう。
平安末期のころの話です。九州の苅萱の領主に加藤左衛門繁氏という人がいました。繁氏には、正妻桂子のほかに、おめかけに千里という人がいました。女性の髪の毛は、大きな憎悪を生むといわれますが、ある日、繁氏が2人の寝姿をそれとなしに見ると髪の毛が蛇になってみにくい争いをしているのです。繁氏は、今さらながら自分の罪の深さに驚くとともに、世の無情を感じてそっと出家し、比叡山の延暦寺に上りました。千里姫はそのあとを慕って旅に出ましたが、播磨国(今の兵庫県)の明石の大山寺に来た時、男の子を産みました。住職の勧めで、父繁氏の幼名をそのままとって石童丸と名付けました。石童丸が14歳になったとき、母と一緒に繁氏の居場所を尋ね旅に出ました。高野山に来た時、女人禁制の地であるので、石童丸は母親とふもとにおいて、山中の寺々を尋ね歩きました。3日目に、ある橋の上で左手に花かごをたずさえ、右手で数珠をくりながらお経を唱えている、ある風変わりな僧侶に出会いました。父親のことを尋ねると、急に顔色が変り、目に涙さえ浮かべます。この僧侶だれあろう、苅萱道心と呼ぶ繁氏自身でした。しかし、繁氏は肉身のきずなを断って仏道修行中の身であるので、父の名乗りをせず、「そなたが尋ねている坊さんは、残念なことに亡くなられた。この墓がそうだ。」とうそを言って、石童丸を帰らせました。石童丸は、やむなくふもとで待つ母親のもとに帰りましたが、すでに母親は旅の疲れが重なって倒れ、もうこの世の人ではなくなっていました。石童丸は、人生の悲哀をしみじみと感じ、仏の道に入ることを決心し、再び苅萱心を尋ね、頼みに頼んで弟子にしてもらいます。やがて道念と命名し、2人はただひたすら仏道の修行に励みました。しかし、苅萱は煩悩を断ち切ることのできぬ身のあさましさを嘆き、ある日、石童丸には何も告げずに高野山をそっと出て、信州(今の長野県)の往生寺に行きます。後日、石童丸は夢のお告げによって、苅萱が自分の父であり、往生寺にいることを知りましたが、父を尋ねた時は、もうこの世の人ではなくなっていました。父の苅萱は、善光寺如来の導きにより、一体のお地蔵さんを刻んでいました。石童丸も父の気持に感動し、まごころをこめてお地蔵さんを作りました。親子2人で作ったお地蔵さんを、人々は「親子地蔵尊」とか「親子のお地蔵さん」と呼んで、てい重にお祭りしています。
 高野山別院の地蔵堂にお祭りされている親子のお地蔵さんも、ご利益があるというので、参詣者も多いようです。地蔵堂に2つの押し絵が掲げられていますが、1つは卒中で倒れ、口がきけぬようになっていた婦人が全快記念に、今1つは、願掛けをし高校に合格した少年が、それぞれ奉納したものです。この婦人の場合は、願掛けをすると、枕もとに親子のお地蔵さんの額がほしいというお告げがあったそうです。
 なお、この地蔵堂には、親子のお地蔵さんのほかに、日切地蔵尊、文殊地蔵尊、慈母観音の掛絵が祭られており、いずれもおかげをこうむった話がたくさん残っています。

所在地:今治市別宮町

6.円照寺の乳地蔵さん

高橋の円照寺(臨済宗)に俗に乳地蔵(授乳地蔵ともいいます。)というお地蔵さんが安置されています。このお地蔵さんは、康保年間(964~967)─一説には天慶年間(1053~1057)ともいわれます。─の昔、地中から出現したといわれます。

この時、五色のまぶしい光を発し、人々を大いに驚かしたということです。この場所は、今の円照寺とは少し離れた高橋の土地に当りますが、里人は、このお地蔵さんを心から尊んで、茅のお堂を建てて、てい重にお祭りしました。そのうち、霊験あらたかなものがあり、熱心な信者が日ごとに増え、ついに今の円照寺の境内に、立派な地蔵堂と建ててお祭りし、今日に至るようになったということです。とりわけ乳の出ない母親が、「乳をお授け下さい。」と言ってお願いをすると、必ずかなえてくれるとか。願ほどきの時には、2つの乳の型をかたどったものを献納する風習が残っており、地蔵堂には乳の模型が、沢山つるされています。
この地蔵堂の縁側に、小さなお地蔵さんがあり、信者がおしろいや土を塗ってさしあげるという奇習が残っています。これは自然石に刻まれた乳地蔵さんの胴のあたりが割れているので、代わりに小さなお地蔵さんに化粧をして隠し、いたわってあげるのだということです。このまじないをすると、たいそうご利益を受けるとか、とりわけ下の病によく効くそうです。
8月23日の縁日には、境内で盆踊りが行われ、店も出て大へんにぎわいます。

所在地:今治市高橋

7.真光寺の延命地蔵さん

東村の真光寺(真言宗)に6メートル余に及ぶ立派な延命地蔵さん(正式には延命地蔵尊といいます。)があります。
この真光寺は、第59代宇多天皇の勅願によって創建されたもので、十二坊七堂伽藍の立派な由緒のある真言宗のお寺でした。それが兵火にかかったり、風水害に見舞われるなどして、いつの間にか往持の面影がなくなってしまいました。特に明治6年(1873)8月の頓田川堤防の決壊に対する被害ははなはだしく、本堂と大伽藍が流出してしまいました。そのために、時の住職佐伯実雄和尚は、お寺の復興のために格別の努力をはらいました。そのあとを継いだ菅宝厳和尚は、大正12年(1923)に寺の興隆と善男善女の延命利生(長寿とご利益を与えること)を祈願して、伯方島の石工さんに依頼し、延命地蔵さんを建立しました。

このお地蔵さんは、けさと衣とを着用した僧侶風の姿をしており、左手に宝珠、右手に錫杖(頭部にかんがあり、それに小さな鉄の輪をつけたつえ。お坊さんが持ち歩く時に使う。)を持った立像ですが、その大きさもさることながら、柔和なお顔は、まことによくできています。錫杖は、現在のものは鉄製になっていますが、第二次世界大戦の際に供出されるまではしんちゅうだったそうです。─お地蔵さんは、この錫杖をついてめい界(死後に行くといわれる世界)を歩き、不幸な亡者を仏道に導くといわれています。─今も延命地蔵さんの恵みにあずかろうとする人たちの信仰を集めています。

所在地:今治市東村

8.比留女地蔵さん

菊間町高田字ひるめの田んぼの中に小さなお堂があり、そこに、比留女地蔵さんという風変わりなお地蔵さんが祭られています。「比留女」は「姫地蔵」と言うのがなまったもので、身分の高い女性を尊んだ呼び名であろうといわれています。
戦国時代の昔、菊間町松尾の黒岩城主、渡部内蔵進という人の姉に、タカ姫というとても美しくて気品のある人がいました。このタカ姫は、腰気をわずらい長い間悩みました。それで般若心経を書写して、高田字ひるめに埋め、病気が一日も早くなおるように熱心にお祈りしました。おかげでタカ姫の病気はすっかりよくなりました。また、一説には、天正年間─1573~1591─(正確に天正13年─1585─という人もいます。)の昔、高仙山城主得居末高の姉が、戦乱をのがれる途中、

この地で亡くなったといわれています。このようなことがあって以来、人々は、この地に比留女地蔵さんとしてお祭りしました。このお地蔵さんは、下の病に霊験あらたかといわれ、性病、腰気、夜尿症のなおった人など、おかげをこうむった人も多いといわれています。なかには、脳病のなおった人もいて、万病に効くという声もあり、近郷近在はいうまでもなく、松山等の遠方からも参詣者があるとのことです。
 比留女地蔵さんには、奉納品として女性のお腰(腰巻)や男性の男根を型どった焼き物や木製品などがお供えしてあります。また、8月21日は縁日になっており、餅まきや踊りでにぎわいます。なお、タカ姫の位はいは「献珠院殿円覚妙善禅尼」と書かれており、高田の献珠院(真言宗)にお祭りされています。

所在地:今治市菊間町高田

9.七地蔵さんのいわれ

今治市町谷にある無住の庵の近くの木々の茂みの中に七つの小さなお地蔵さんが安置されていて、俗に、七地蔵さんと呼ばれています。元来、お地蔵さんは六地蔵と言って六体あるのが普通ですが、ここでは一体だけお地蔵さんの上部が斜めに欠けています。これは、古老のいい伝えによれば、もともと六地蔵であったのを、昔、ある悪辣残忍な侍が試し斬りしたため、後から一体だけ新しく作ったからだと言われています。

所在地:今治市町谷

10.間のお地蔵さん

東村に、俗に「間のお地蔵さん」と言われるお地蔵さんがあります。眼や風邪に御利益があると言われ、近郷の人は勿論のこと、遠方からもお参りに来る人がいます。(こう言ったことから、「眼のお地蔵さん」とか、「風邪のお地蔵さん」と言う人もいます。)昔は、このお地蔵さんの前を通る時には、履物をぬいで素足で通る人が多かったと言うことですが、今でも時たま、素足で通る人がいるそうです。お地蔵さんと言われているものの、供養塔や墓の形態をとっており、誰か相当高貴な方をお祭りしたお墓ではないかを思われます。一説には、大舘氏明の首を葬った首塚ではなかろうかと言う説もあります。氏明の位牌は世田山(東予市と今治市の境にある山、339メートル)の麓の旃壇寺(真言宗)に、墓は世田山上にあります。

 大館氏明は、新田義貞、脇屋義助の甥に当たり、延元3年(1338)に伊予の守護となり、世田山(周桑郡三芳町)の城主をつとめましたが、興国3年(1342)9月に、細川勢との戦いで挺身奮闘し、部下17名とともに自刃しました。氏明の最後については、『太平記』(軍記物語、40巻、作者は小島法師といわれますが、正確なことはわかりません。応安年間-1368~1374-のころの作と言われています。)に「大館左馬之助討死事附篠塚勇力事」に次のように出ています。「力尽き食乏しく、防ぐべき様も無りければ、9月3日の晩、大館左馬主従十七騎、一の木戸口へ打ち出で堀に著きたる敵五百餘人を遥かなる麓へ追下し、一度に腹を切って、枕を竝べてぞ伏したりける。」(一の木戸口へ打って出て堀にとりついた五百余人の敵を遥か麓へ追い落してから一せいに腹を切って枕を並べて最期をとげた。<左馬助は氏明のことである。>)

所在地:今治市東村

11.火よけのお地蔵さん(古寺のお地蔵さん)

大西町新町の踏切りの近くの金光教大井教会の東隣の広場に「火よけのお地蔵さん」とか「古寺のお地蔵さん」と呼ばれる地蔵堂があります。江戸時代には、この地蔵堂のあたりが処刑場になっていたそうで、延喜村(現在の今治市延喜)の農民のために尽くした八木忠左衛門父子もここで処刑になったといわれています。昔は、地蔵堂のあたりから人骨がひょく出てきたそうで、後にここにお寺が建てられていたのではという説もあります。火よけのお地蔵さんと言われているようにこの地蔵さんのお陰で、昔からこの新町には火事がほとんどないそうです。あってもあまり大火にはならなかったそうです。お地蔵さんはお堂の中にあって立派なよだれかけをかけています。このお地蔵さんは、火よけのほかに悪病厄除けとして信仰を集めています。

特に子どもの願いごとはよくかなえてくれるそうです。願いごとをかなえてくれた時には、白いよだれかけに○年(エト)○歳と書いたよだれかけをお堂の入り口に奉納する習わしがあります。白いよだれかけは、お陰をいただいた人が、願ほどきのお礼に奉納すたものだそうです。毎月23日を御命日としてお膳を供えてお祭りし、8月23日を御縁日として盛大に供養していますが、古老の話によると、太平洋戦争前までは、新町の旧大庄屋の井出家から下の新町では、各家ごとにわらやしゅろでこしらえた人形の出し物が出されたり、ちょうちんが飾られたりして、各戸をあげてお祭りをしたそうです。最近でも子供も出て盆踊りをしますが、以前は、盆踊りの規模も大きく店もたくさん出てかなり盛大ににぎわったということです。

所在地:今治市大西町新町

12.五十嵐の虚空蔵菩薩さん

昔、五十嵐にお金持ちが住んでおりました。ところがどうしたことか、この家には生まれてくる子供が身体障害者であったり、若死するなど不幸が続きました。そこで、日ごろ熱心に仏さんに「罪けがれをのぞいてください。」と祈願をしておりました。ある晩のことです。主人の枕もとに夢の中で仏さんが現れ「明日の朝早く喜田村(鳥生という説もあります。)の浜辺で待っているから、馬を引いて来なさい。」とお告げがありました。しばらくすると海上のある一点から後光がさしてきます。きっとあの夢に現れた仏さんがおいでになるに違いないと、小舟を出して沖へ出ました。すると、やはり立派な仏像が波に洗われながら、見えかくれつしています。主人はうやうやしく伏し拝んだあと、その仏像を小舟に乗せました。

家に持ち帰った主人は、五十嵐の松尾に小さいお堂を建てて、てい重にお祭りしました。その後、主人夫婦に玉のようなかわいい赤子が次々に生まれました。そしてみんな健やかに成長しました。これこそ仏さんのおかげだと、主人夫婦はいうに及ばず、村人たちも厚く信仰しました。この仏さんは、一般に現世来世の利益を授ける虚空菩薩さんの名で人々に親しまれています。特に妊婦が祈願すると、身体障害者は絶対に生まれないといわれ、遠近の人たちの尊信を集め、参詣者も多いようです。なお、正月と盆には、子供が中心になって、てい重にお祭りしています。このお地蔵さんは、長い間海中にあったので、貝がらが付いていたそうですが、現在はきれいに洗い落とされています。

所在地:今治市五十嵐

13.四村のさえの神さん

四村(旧清水村)の道路わきの田んぼの中に、五つの小さな石造が建っています。この石造については、いろいろ言われていますが、さえの神さん(さいの神とも言い、塞の神と書くが幸の神、才の神などと当てることもある。)ではないかと言う説が最も強いようです。

このさえの神は、防塞の意味と同じで、外からやってくるわざわいを、ここで防禦するための神様だと言われています。新村出編の「広辞林」には、「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が、伊弉冉尊(いざなみのみこと)を黄泉の国に訪ね、逃げ戻った時、追い掛けてきた黄泉醜女(よもつしこめ)を遮り止めるために、投げた杖から成り出た神」とあり、また「邪霊の侵入を防止する神、行人を守る道路の神……」とあります。またこの石造は、一説には十月に、このあたりの神様が全部出雲(今の島根県東部)へ行ってしまう日があるので、その留守を守る神様で、たごり(咳)の神様だとも言われています。丁度石造が五つあるので、この地方の義人と言われた近藤八右衛門等、五人主の墓ではないかと言う人も多いようですが。五人主の墓は浄寂寺境内にあり、また、この石造の祭主もはっきりしているので、五人主とは関係がないと言えます。

所在地:今治市四村

14.平家にゆかりのある石仏さん

中日吉町の渡部脩氏方に、とても立派で美しい石造りの座仏像である釈迦像、知恵の文殊菩薩、普賢菩薩等十体が保存されています。この石仏さんは、昭和のはじめ予讃線が今治駅に開通したころ、熊本市で骨とうの趣味を持つ脩氏の御祖父の亀吉氏が熊本県の阿蘇郡一宮町から取り寄せ、御尊父の喜八氏に送ったもので、次のような話が伝わっています。

平安末期から鎌倉末期にかけて、源平合戦による平家一族の戦没者の霊を供養するため、平家の落人が、一宮町の山地に石仏を彫って安置し、観音堂をこしらえて供養したということが、当地の竜泉寺(曹洞宗)の記録に残っています。また、別に熊本地方では、没落した平家の菩提を弔うため、有名な浄瑠璃の名作「義経千本桜」に出てくる石屋の彌陀六が、五百羅漢や十六羅漢を石に刻んだという話が残っており、これらの石像の一部ではなかろうかという伝説もあります。熊本地方には、このような石仏さんが、ぼつぼつ残っており、なかでも、熊本市松尾町岩戸の雲巌寺(曹洞宗)の五百羅漢は有名ですが、この脩氏宅の石仏さんとは無関係のようです。この石仏さんは、明治のはじめころは、一宮町にはかなり残っていたようですが、その後、分散したり、破損したりして、現在は当地には一体も保存されていません。石仏さんは、いずれも阿蘇の火山岩で非常に精巧に作られており、しかも完全な形で残っているだけに、珍しい貴重なものとされています。こんなことで、見物客も多いということです。
 ところで、この石仏さんはいろいろ霊験があり、粗末な扱いをすると、たいへんなばちが当たるといわれます。
 ある日のことです。家の増築をしていて、左官さんがある石仏さんの上を、あやまってまたいだところ、左官さんと家族の人が全員病気にかかって苦しみました。それで、左官さんと家族の人みんなで、石仏さんをていねいに洗い清めたところ、やっと病気がなおったということです。また、玄関前に天上天下唯我独尊の格好をした釈迦像が安置されていますが、ある時、脩氏がこの像を動かしていて、首のあたりを痛めたことがありました。あわてて左官さんを呼んで、応急処置をしましたが、後日、案の定、脩氏が自転車に乗っていて事故(さいわい軽傷で済んだそうです。)に会いました。こんなわけで、譲ってくれるようにせがむ人もぼつぼついるそうですが、一体でも欠けるとばちが当たるというので、脩氏も手放さなく、てい重にお祭りしているということです。

所在地:今治市中日吉町

15.乗禅寺の観音さん

およそ、今から千五十年の昔、延喜の小谷という所に喜作という人がいました。父親は医者で、里人から非常に重宝がられていました。ある日、喜作が、大井(現在の大西町で旧大井村に当たります。)で病人を診察しての帰りに、浜辺で、龍女の作といわれる一寸八分(約5・5センチ)の観音さんを授かりました。喜作は、この観音さんを持ち帰って、毎日拝んでいましたが、後に決するところがあって、お堂を建ててお祭りするとともに、自らも出家の身をなり、名も良玄と改めました。(後に頓魚とも呼ばれるようになります。)この観音さんの霊験あらたかであることが、国中に知られるようになり、国司なども、しばしば武運長久等の祈願を依頼したということです。
時代は下って、宥然上人(ゆうねんしょうにん)というお坊さんの時代に観音さんの霊験が、時の朝廷である第六十五第醍醐天皇にも申し上げられました。時に延喜年間(901~922)であったので、その年号にちなんで、この観音さんを「延喜観音」と呼び、小谷の名も延喜と改めさせられました。また、七堂伽藍を建立せられ、お寺の名も乗禅寺(真言宗)と名付けられ、仏師の安阿彌に命じて、手が六本ある木仏の座像の如意輪観世音菩薩を作らせました。安阿彌は、馬越の鯨山で飲食行動を慎み、水あびをして心身のけがれを除き、この仏像を作りましたが、この時、これまであった一寸八分の観音さんを、その腹の中を納められたということです。(別に六人の僧が作ったのだという説もあります。)この観音さんは、その後、たびたび兵火にあったにもかかわらず、その難を免れ、今も乗禅寺の御本尊として残っています。高さ三尺七寸(約112センチ)の仏像で十分重要文化財になる価値がありますが、宝暦五年(1755)の兵火で本堂が焼失した時に、運搬していて手を一本折り、修理した箇所があるのが惜しまれています。
この観音さんの霊験については、こんな話も残っています。第95代後醍醐天皇の御代、頓上上人の時に、ご病気でなやまされていた天皇の枕のもとに、小谷の観音さんが現れて、この観音さんをご祈とうすれば、病気は立ちどころになるであろうというお告げがありました。このことによって寺領に綸旨(天皇のお言葉)があり、今もその書が保存されています。
現在、境内には、藤原後期から鎌倉後期のものと思われる醍醐天皇、後醍醐天皇の宝篋印塔(五基)をはじめ、五輪塔(二基)、多宝塔(一基)が残っています。
なお、この観音さんについては、喜作が大井の浜で授かったという伝説のほかに、昔、花木長者(宅間の長者ともいわれました。)が大井の浜で見つけ、持ち帰って延喜の小谷に祭ったのが始まりであるとか、菅原道真が讃岐(今の香川)の国司であった時、海上で風波に遭遇し、天皇から賜った一寸八分の観音さんを、この地に安置したのが始まりであるという説もあり、いろいろにいわれています。

所在地:今治市延喜

16.観音さんの助け

天智天皇の昔、百済の白村江(朝鮮半島西南部錦江の古い地名)の戦いで日本の水軍は、唐(今の中華人民共和国)、新羅(朝鮮半島の古い国名)の連合軍に大敗しました。その時、運悪くこの地方の豪族であった越智直等八名の者が、唐の軍のとりこになって、ある孤島に強制収容されました。監督の目がきびしいので逃走することも難しく、八人の者は、ただ父母妻子のことを、いつも頭に描いて憂うつな毎日を送っていました。ところが、ある日、思いがけなくも捕虜収容所で一体の観音さんを発見しました。(一説には、越智直が常にはだ身離さず信仰していたともいわれています。)八人の者は、観音さんが一切衆生(仏教で、この世に生存するすべての生きものという意味です。)の願いをかなえてくださるものと信じ、どうか本国に帰らせてくださいと、来る日も来る日も一心にお願いをしました。ある時、八人の者が集まって、どうせこの地で死ぬのなら、一か八か脱走を試みてはどうだろうか、観音さんの加護があるものなら救われるに違いない。皆で協力して大木を切って、舟にくりぬいて、監視のすきを見はからってひそかに逃げ帰ろうではないか、ということに話がまとまりました。またたく間に舟は出来ました。まず、舟に観音さんを安置して乗り組みました。舟はちょうど追い風に恵まれ、矢を射たように本国をめがけてまっすぐ突っ走り、筑紫の国(今の九州、狭義では今の福岡県)に到着し、それぞれなつかしい故郷の地を踏むことが出来、父母妻子とも喜びの対面をしました。その後、このことが都でも評判となり、朝廷からお呼びを受け、越智直等がその時のことをこまごまと話しました。興味深げに耳を傾けられていた朝廷は、非常に感激されて希望があれば何なりとかなえさせてやろうと申されました。そこで、越智直は、越智郡という新しい郡を設けてその地の大領(郡の長官)となり、この地にお堂を建立して観音さんを安置しました。その後も、越智直の子孫に当たる河野氏をはじめ、代々、てい重にお祭りしたということです。この伝説は「今昔物語、巻十六、本朝付仏法伊予国の越智の直観音の助けによりて震旦より返り来るものがたり、」にもかなり詳しく述べられています。ところで、この観音さんのその後の所在ですが、作礼山の仙遊寺(真言宗)にあったとか、中寺の石中寺(石土宗、現在、寺はありません。)の塔頭の観音堂に納められていたとか、あるいは、藏敷にある東禅寺の本堂に安置されている観音さんがそれであるとか、いろいろにいわれています。また、作礼山の頂上にある五輪塔は、越智直が天智天皇のご恩に感謝して、後に建立したものではなかとうかといわれています。ついでに、越智直についてですが、彼は後述の「38鉄人退治と越智益躬の子孫で、本名を越智守興といい、新谷の三島神社の境内に彼の墓と称するものがあります。

所在地:今治市玉川町別所

17.龍登川と観音さん

昔、龍女(籠宮にいるといわれる仙女)が、海から龍登川(河南地区を流れている川で龍燈川とも書きます。)を伝って玉川町の作礼山に上がり、それはそれは立派な観音さんを作りました。龍女は、一刀刻むごとに三度礼拝し、何日も何日もかけてこの観音さんを作りあげました。観音さんが出来上がると、龍女は再び龍登川を伝ってもとの海に帰りました。ところで、ある古老は、龍登川の近くにある鳥生の衣干という地名は、龍女が川を上がる際、川尻の衣干峠でしばらくの間休み、衣を干したからだといっています。また、拝志という地名は、龍女が観音さんを刻んで川を下る途中、作礼山の方をふり返って、観音さんを何度もうやうやしく拝したからだという人もいます。その後、旧の7月9日には、毎年決まったように龍燈が龍登川を伝って作礼山へ上がり、作礼山の仙遊寺(真言宗、四国八十八か所十八番札所)にある桜の木にかかったそうです。この桜の木は今はありませんが、龍燈桜と呼ばれ、明治時代ころまで見ることが出来たということです。その跡へ昭和二十九年(1954)に、高野山の金山大層正によって立派な桜の木が植樹され、かなり大きく成長していましたが、惜しいことに虫にでも食われたのか、今はそれも枯木になってしまっています。
登川という川の名の起こりは、この龍女や龍燈の伝説と関係が深いようです。なお、龍女によって作られたといわれる仙遊寺の観音さんは、龍女一刀三礼の作「千手観音」(詳しくは「千手千眼観世音菩薩」と言います。)と言っております。この観音さんは、その後何度か火災にあって焼失してしまい、現存しているものはどうも新しく作られたもののようです。昭和二十二年(1947)四月に小鴨部山の失火がもとで、お寺は類焼の難にあいましたが、幸い近くの新谷や別所の方々によって、御本尊は、ご避難をえて焼失を免れました。

所在地:今治市玉川町別所

18.高橋の馬頭観音さん

高橋の権現山の伊予熊野神社境内の入口に、風変わりなお地蔵さんがあります。馬の上に仏さんが乗った石像で、馬頭観音さんと呼んでいます。昔から馬は、人間にとってつながりの深い動物でした。特にずっと昔は、馬の足の速いことが尊重され、速さの象徴となっていたようで、救いを求める人々の願いを聞いて、敏速に助けに来るといった救済力を持った仏さんとされていたようでした。それが後に、馬の守り神として祭られるようになったのです。昔は、交通運送の手段として馬が大きな役割を果たしていましたので、農夫や馬方などが、馬頭観音を祭って無事を祈ったようです。昔は、高橋部落の人々は、朝まだ開けきらぬ暗いうちに、鈴をつけた馬にほいほいとかけ声をかけながら、隣近所の人々と競うようにして、御厩(玉川町)のあたりまで、草刈りに出かけるのが日課になっていました。ところがこの熊野神社のあ

たりは、坂道の上がまがり角になっていたので、足を踏みはずしてけがをしたり、死んだりする馬が続出しました。そこで愛馬の供養のため、また、他の馬の無事を祈るため、馬頭観音さんを作って、てい重にお祭りすることにしました。諸病、特に神経痛やリュウマチに霊験あらたかといわれ、参詣者も多いようです。
なお、この馬頭観音は、小泉本郷の泰山寺の近くにもあります。また、馬頭観音とは関係ありませんが、馬に関するものとしては、神宮井戸の庄屋山に庄屋の愛馬の不慮の死を供養するため「大乗妙典一字一石」と書かれた石碑が建てられています。

所在地:今治市高橋

19.お灸をすえる凪見観音さん

桜井の古国分山(約30メートル、寺山ともいう)には、今治藩主久松家の初代定房、三代定陳、四代定基の三人の立派なお墓がありますが、このお墓の後に石造の等身大の観音さんがあります。この観音さんは凪見(なぎみとかなだみと言います。)観音と呼ばれ、上半身の病に霊験あらたかと言われ、お参りする人も多いようです。おもしろいことに、この観音さんのうなじ(頭の後方の下部、えりくびの所)に穴があいていて、そこにお灸をすえて願いごとをするとかなえられるそうです。-別に、観音さんにお願いして願いごとがかなえられるとお礼に灸をすえるとよいという人もいます。-昔、今治のあるお殿様にとても美しく気だての優しいお姫さんがいました。このお姫さんは大変な読書家で賢い方でありました。あまりよく本を読むので、肩こりで悩み、

それがもとで亡くなったということです。それで、このお姫さんが亡くなる時に、お側の者に「私のように肩こりで悩む人は気の毒である。上半身から上の病で苦しむ人は、私の平素信仰している観音さんのちりけ(このあたりではちりげと言っています。)に灸をすえて一心に拝むと荒れていた海がなぐようにお陰を授かるであろう。」と言い伝えたそうです。このお姫様の海がなぐようにお陰を受けるということから、いつだれというなしに凪見観音と呼ばれるようになりました。また、いつも海上が凪いでいるように、船の安全や大漁を祈願するため参詣する人も多いようです。平素からお陰にあずかろうという人のお参りが多いようですが、とりわけ毎月十七日は観音さんの日として参詣人も多いとか。特に八月十七日には観音さんの前で桜井の浜や古国分の有志の方々が集まって御詠歌を唱えたり歓談したりします。また、一部の人の中には盆おどりをしてにぎわうそうです。昭和三年三月奉納の石に彫られた手洗が今も残っており古くから信仰されていることがわかります。なお、観音さんの向かって左側にお地蔵さんがありますが、このお地蔵さんは、観音さんとは逆に下の病に霊験あらたかなものがあると言われています。今日も観音さんにお地蔵さんが仲よく並んで、優しいまなざしで瀬戸の海の方を眺めています。また、観音さんの右側の山手に小さなかわいい石仏が建っています。

所在地:今治市古国分

20.別宮の阿奈波神社の由来

別宮の大山祗神社の境内に「阿奈波さん」の名で親しまれているお宮があります。現在の阿奈波神社には、昭和38年(1963)3月17日に、大三島の阿奈波神社より観請したものですが、古地図(四国八十八か所五十五番札所の南光坊(真言宗)に所蔵されていましたが、惜しくも戦災で焼失したということです。)等からずっと昔は、この境内に祭られていたのではないかということです。

御祭神磐長姫神(大山積大神のご長女)について、次のような悲しい物語が残っています。
神代の昔のことです。天孫瓊瓊杵尊(天照大神のお孫)が天照大神の命によって、この国土を統治するため、高天が原から日向(今の宮崎県)の高千穂峰に降臨(天から地上に下られること)されました。間もなく大山積大神の娘木花開耶姫(木花佐久夜姫とも書きます。)を見そめることになり、結婚を申し込みました。大山積大神は、たいそう喜び、「よかったら姉の磐長姫命も一緒にお願いします。」と勧めました。ところが、妹の木花耶姫がまれに見る美女であったのにくらべ、醜女であった磐長姫は、断られてしまいました。磐長姫は「私だったら岩のような丈夫な子を産むことが出来るが、妹の子はすぐ花のように散ってしまおう。」と嘆かれたということです。その後、磐長姫が、一生独身で過ごされましたが、いわれたとおり長寿をまっとうされました。
結婚を断られた磐長姫は、生涯を醜女や性病など下の病に悩む人のために、尽くしたと伝えられています。福徳円満な神様でもあったので、人々から尊ばれており、「福の神様」「長生きの神様」「下の病をなおす神様」として善男善女の信仰の的となり、参拝客も多いようです。

所在地:今治市別宮町

21.八幡渦と大浜八幡神社の由来

馬島と中渡島の間を流れる中水道南の中央入口に『八幡渦』と言う来島海峡最大のうずがあります。大潮の時には、直径十メートル余にも及び大うずになるそうで、航海の難所といわれている所です。この八幡渦には、次のようないわれがあります。
その昔、伊予の水軍村上氏の盛んな時代のことです。大浜八幡神社(大浜中部)の大祭に、毎年みこしが海を渡って、島々の城に渡御しておりました。ある年、みこし三体が海を渡る途中、一体がここの渦にまきこまれて沈んでしまいました。このことがあって以来、この箇所を神社の名をとって『八幡渦』と呼ぶようになったそうです。また、このことがあってから間もなく、八幡渦から火が飛び出し、神領の吉海町の椋名に落ちるという珍事が起こりました。そこで里人は、八幡渦の海水をくんで神様をお迎えして、渦浦八幡神社を建てて大浜八幡神社の分社としたということです。この神社のあたりを渦浦と呼ぶのもこのような事故によるといわれます。
大浜八幡神社は、越智氏族の祖神である小千国造(おちのくにのみやつこ)乎致命(おちのみこと)のほか、八柱の神さんをお祭りした由緒ある神社です。大浜八幡神社という社名は乎致命から九代目の子孫に当たる乎致高縄が大浜(御浜、王浜とも書いていたことがありました。)に大浜大神を創建し、更に貞観元年(859)-延長二年(924)という説もあります。-国司河野大夫興村等が、宇佐八幡宮より八幡宮を勧請したことによるといわれています。この神社は、江戸時代には今治藩主が、今治越智郡の総氏神としてあがめ尊ばれ、念に一度は参詣されました。また、毎年大祭にはみこしが登城して、今治の町々を回ってにぎわいを呈したということです。

所在地:今治市大浜町

22.柿原霊神の由来

禅寺(臨済宗)境内の小高い所に、柿原霊神という小さな社があります。この柿原霊神は通称柿原誠楽(本名庄兵衛)といい、元は今治藩主でしたが、後に黒柱教の布教師として活躍した人です。この誠楽について、次のような興味のある話が伝わっています。
明治十七年(1884)十一月十五日の出来事です。広島県竹原市の忠海町の黒住教会所長に渡部好太郎という人がいました。渡部所長が自宅で本を読んでいたところ、急に眠気がさしてくるのです。ついうとうととすると、目の前に誠楽が現れ、「下の病は、まことにめんどうなものである。ところが、今回黒住教祖様からありがたいおかげを授かることになった。今後腰の病で苦しむ者は『柿原霊神』と唱えて祈願してほしい。

ただちにおかげを受けるように、教祖様に取りつぐことにいたす。」と言ってぱっと姿を消しました。あとでわかったことですが、この時、誠楽は、この世を去っていたのでした。渡部所長は、その霊感に驚くとともに、このことを信者はもとより多くの人々に広めました。
その後、誠楽がいったように、柿原霊神は下の病、特に痔と腰気に霊験あらたかなものがありました。そのため一時は近郷近在はいうにおよばず、京阪神から九州方面の人まで参詣に来たそうです。今でもおかげにあずかろうとして、参詣する人がかなりいるとのことです。四月八日(以前は四月三日でした。)は、春季例大祭でにぎわいます。

所在地:今治市山片町

23.青木社の由来

今治藩、初代の大名、久松定房の草履とりをつとめていた某が、ある年、村内水論の主謀者と見られ、処刑されてしまいました。後に讒言(相手をおとしいれるためにありもしない事を作りあげ、目上の人に告げること)した者が顕れ、村民は彼の死を憐み、彼の屋敷跡に小さな祠を建てて祭りました。

 その後、青木社(祭神=水波女尊、国挟槌尊、豊受姫等)と一緒にお祭りしましたが、この青木社は、明治時代に今の姫坂神社に合祀されるまで青木通に祭られていました。今、この青木社は姫坂神社の入口のところに社殿がありますが、咳の神様として崇められ参詣者も多いそうです。また、従前は、願をかける人や、願ほどきに来た人が奉納した草履が沢山入口の柱に吊るされていました。今でも、ぼつぼつお礼参りに来た人が草履を奉納しています。これは、先の草履とりと縁が深いのではないかと思われます。なお、この青木社は、江戸時代に雨乞いの祈願所とせられ、その霊験あらたかであったと言う言い伝えも残っています。

所在地:今治市宮下町

24.馬神社の由来

大三島の大山祗神社の末社に「馬神社」と言う馬をお祭りしたかわったお社-境内の入り口の社務所の近くの、神馬舎と並んだ小さなお社-があり、面白いいわれと神事が残っています。
気の短い須佐之男命が、姉君の天照大神が衣を織られるために、斉服殿にいられるのを見て天斑馬の皮を坂剥に剥ぎ甍をはいで放りこまれた。そのために、天照大神が杼で傷を負わせられることになり、遂に天石窟に入らせられ、大騒ぎしたと言う神話が古事記や日本書紀の中に出ています。この際の、須佐之男命の生剥逆剥になった天斑馬の霊をお祭りしているのが、このお社だと言われています。この大山祗神社の末社としてお祭りするようになったのは、御祭神になっている大山積大神の娘の木花開耶姫命を、天照大神の孫に当たる瓊々杵尊(ににぎみのみこと)が降臨する

時に、后妃として差し上げた関係上、天照大神のお気持ちを柔らげ慰めるためではないかと言われています。この馬神様に因んで、この大山祗神社では、平安時代から江戸時代の終わり(文政時代-1818~1830-)の頃まで流鏑馬が行われていました。この流鏑馬は、十数名の物が、平安時代に公家が着用した狩衣姿で弓矢をたずさえ、馬にまたがり、境内を馳せながら、馬上から獣の模型の的を次から次へと射ると言った行事で、旧正月の十日頃に行われていましたが、自然の災害にあい、いつの間にか止んでしまったそうです。最近までこの流鏑馬のかわりに弓祈祷の行事が行われていましたが、若者の不足で現在は中止されています。大山祗神社の南方約二百米くらいのところに、「馬見」(大三島町宮浦下条)と言うところがありますが、昔は神馬その他の用馬を飼っていた土地だと言われています。また、今でも春季大祭(旧暦の8月22日)の神輿渡御の供奉行事に、神馬が宮司神職を乗せて奉仕しており、平安時代さながらの風俗でもってお祭りが執り行われています。なお、大山祗神社に伝えられているものとして、「馬の角」だと言われているものがあります。長さ二寸五分くらいのもので、現在国宝館に陳列されていますが、室町時代に神馬として飼育されていた馬に生えたものだと言われています。

所在地:今治市大三島町宮浦

25.権現山の稲荷神社の由来

高橋(旧日高村の大字)の権現山に、稲荷神社があります。この稲荷神社は、慶長の昔(1596~1615)、今治藩主藤堂高虎が、有名な京都の伏見の稲荷神社を勧請せられたのがその始まりです。最初、高虎は今治城を築く際、十数間四方もある、豪壮華麗な社殿を建てるため、その御神霊を城内に祭られましたが、ほどなく、国替えになりました。その後、続いて今治藩主初代久松定房が、寛文10年(1670)伊予熊野神社を再興せられた時、稲荷神社の御神霊をこの地に遷されました。これには、こんなわけがあると伝えられています。定房が病気で弱っていた時、ある夜、夢に白狐があらわれ、薬を与えてくれ、その薬を飲むと、不思議や、たちどころに病気がなおったとか、この加護により、この地に、稲荷神社を遷されたと言うことです。

このようなことがあってから、代々の藩主も、この稲荷神社について、信仰が厚く、毎年一、二度は、自ら御参拝になり、幣帛(神にささげるぬさ)を奉納したり、二月の初午祭と、十一月の例祭ごとに、近臣の者をつかわして、代拝させることが多かったようです。権現山の祭りは盛大で、以前は、頭に白狐の頭巾をつけた奴が出ていましたが、これは先に述べた定房が、夢に見たと言う白狐に由来すると伝えられています。それから、高虎が計画していた稲荷神社の社殿の百分の一の模型が、現在、この殿内に奉安されていますが、これは定房が稲荷神社をこの地に遷される時、一緒に遷されたものだそうです。なお、お稲荷さんについてですが、この信仰は、本来は宇迦之御魂神をつつしんでお祭する信仰で、一切の食物を司る五穀の神の名のことを稲荷と言ったのですが、後に、お稲荷さんが狐の神と同一視されたり、狐がお稲荷さんの使い姫のように言われるなど、狐と不可分のようになりました。そして、いつの間にか、今日も多くの人々が考えているように、災いを除き、服を受ける開運の神とするむきが多くなってきたのです。したがって、ここで述べた権現山の稲荷神社についても、歴史的に云々すれば、おかしなことになるかもわかりません。あくまで、伝説として味わっていただきたいと思います。

所在地:今治市高橋

26.神像と遊ぶ牛飼いの子供

延喜の佐古に、氏神さんとして素鵞神社があります。延喜の人たちは、俗に佐古神社と呼んでいます。この神社の御祭神と子供について次のようなおもしろい話が残っています。
昔、牛飼いの子供が、御祭神の須佐之男命(素戔鳴尊とも書きます。)の神像を取り出し、近くの池につけて遊んでいました。

ある古老がこれを見て、「なんてばちのあたることをする子だ。やめなさい。」とやかましく注意したところ、古老は次の日からすごく熱を出し、床についてしまいました。余り熱が長く続くので、拝んでもらったところ、神さんが子供と楽しく遊んでいるのに反対したのがいけないということがわかりました。神さんは、大体に罪けがれのない純真な子供が大好きなようでう。わけても須佐之男命は、子供を大変かわいがる神さんだったようです。神像を水につけるという行事は、全国的にもぼつぼつあるようで、長崎でも海につけて遊ぶ行事が残っているそうです。
 なお、素鵞神社は、十月十日が祭日で、この日は、境内の前の広場で子供相撲が奉納されています。

所在地:今治市延喜

27.龍神社の海中の鳥居

波止浜の宮ノ下の龍神社の鳥居が、中堀川のすその海中に静かに立って、時代の移り変わりを見守っています。龍神社は、天和三年(1683)に波止浜の塩田が首尾よく築造された時、郡奉行兼代官の園田藤大夫成連が、日ごろその祖として信仰していた近江国(今の滋賀県)勢田の御祭神八大龍王を観請鎮座したものだといわれます。

海中の鳥居は、少し時代が下がった正徳五年(1715)に建立されたもので、龍神社の参拝者は、この下をくぐると霊験の加護を受けたそうです。現在の龍神社の地がたの大鳥居は、昭和十五年(1940)に建立奉納されたもので、以前はこのあたりは、深い入り海でした。今は海中の鳥居は、地堀川の岸辺にあってちょっと見えにくいですが、昔は干潟で四方から見通しがきき、その眺めはすばらしかったといわれています。また、その当時は、ぼらやちぬなどの大きな魚がこのあたりを遊泳していて、漁をする人を随分楽しませました。-最近は、水門や貯水場が出来たので、ひところほど大きな魚は見えなくなったといわれます。-なお、毎月一日と十五日には、決まって大さめ(ふか)がこの鳥居の下をくぐってやってきたそうです。人々は、大さめが竜神の使いとしてやって来るのだといって、邪魔をしないようにこの両日は漁をやめていました。この日に漁をすると、網が破られ、不漁だったといわれています。

所在地:今治市波止浜町

28.泰山寺の由来

小泉にある四国八十八か所五十六番札所の泰山寺(真言宗)は、弘仁六年(815)に弘法大師により開創されたといわれています。弘法大師がたまたま四国巡拝教化のためにこの地に来られた時、ちょうど梅雨で大雨のため、蒼社川がはん濫して田畑や家屋が流失し、人命を失う者も多かったということです。里人は、蒼社川を人取川といって、怨霊がいると信じていました。

弘法大師は、みんなが力をあわせれば水害はあるまいと里人を激励し、堤防を築き上げました。また、川原に壇を築いて、亡霊の供養と洪水のない平和な村になるよう、土砂加持をしました。7日目の満願の日に地蔵菩薩が空中に出現され、祈念成就を告げられました。大師は、この尊像を自ら刻まれ、お堂を建てて安置しました。-現在のものは、昭和二十九年(1954)の文部省の調査によって、鎌倉時代の作品と伝えられています。-もとの泰山寺は、裏山の金輪山に十坊の堂塔伽藍がそびえ、豪壮な寺院だったそうです。境内にある大師不忘松は、弘法大師が満願成就された時の記念として植えられたものといわれます。もとの木は、蒼社川の川岸にありましたが、後に現在の地に移したものだそうです。前代の松は三百年か四百年前のものとされ、写真のように立派なものでしたが、10年ほど前マツクイ虫のため枯死してしまいました。現在のものはその後植えられたものです。なお、泰山寺には、「南無阿弥陀仏・空海」と記した諸病加持のお礼が現存しています。これは、泰山寺中興の諦信上人-天保十三年(1842)~明治十二年(1879)-が修験道に精進した霊感により発案したものではないかといわれます。「千枚通し」と言って、千枚を一組として刷るとききめがあるとされています。昔は、四国巡拝の時に薬を手に入れることがむずかしかったので、この札を水に入れて服用したそうです。また、泰山寺という寺の名は、延命地蔵経十大願の第一の「女人泰山」からきていると伝えられています。

所在地:今治市高橋

29.常高寺の由来

昔、豊臣氏の時代に、河野姓浅海四郎能長の遠孫に加藤玄番頭常高とう人がいました。若い頃、秀吉、秀頼父子につかえ、勇猛な将士としてよく活躍しました。関が原の戦い、大阪の陣等の度重なる合戦に参加し、世の無情を痛感した常高は、武士の身分を捨てて、発心して剃髪し、了空法師と名のり、浄土真宗を修めました。

何人かの気のあった一族郎等を引き連れて諸国を遍歴しましたが、主君のことはいつも脳裡から離れず、秀吉が守本尊としていた阿弥陀如来を手厚く祭りました。
慶長年間(1596~1614)に、この今治の地にやってきて石井の地に草庵を構えていましたが、その頃、丁度親友であった藤堂高虎が今治築城に際し、この今治にやってきていた関係で、その庇護を受けることになりました。常高は、早速風早町四丁目の現在の地をもらい、壮大な本堂を建て、寺の名も常高と言う名前をとって常高寺と定めました。-「じょうこうじ」と呼ぶ寺は浄興寺、浄光寺、などと書いて、かなり全国的に多く見られ、語呂は悪くないようです。-もちろん、御本尊は、秀吉の守本尊である阿弥陀如来ですが、これは聖徳太子の御作と称せられ、優秀なものと伝えられています。開基依頼350余年を経ましたが、その後、応急修理改築などをして今日に至っていますが、第二次世界大戦で周辺の建物が焼失しましたが、本堂は、御本尊のお陰で戦災を免れたと言うことです。

所在地:今治市風早町

30.満願寺の金比羅堂の由来

慶長年間(1596~1615)の昔、朝倉村の満願寺(真言宗)の近くの、ある所で突然、雷鳴のような轟音がたち、都合17日間も続き、人々を大変驚かせました。静まったと、後光のようなものがさすので、満願寺の僧侶がおそるおそる近づいてみると、金幣(金色のぬさ)がそこに置かれていました。

僧侶は「金幣天降り給うなり」と伏して拝み、寺に持ち帰るとともに、これは金比羅大権現の加護によるものと鄭重にお祭りしました。
その後何年かたったある日、山伏姿のあるお坊さんが寺を訪れ、「こちらの寺は金比羅大権現を崇拝している由、早速、その尊像を作らせてもらいたい。」と頼みました。満願寺の僧侶は、快く承諾しました。それから、坊さんは斎戒沐浴(心を清め体を洗うこと)、一心にのみをふるい、8日かかってこの仏像を完成しました。坊さんは「これは一刀三礼の作である。末長く祭っていたゞきたい。」と言って姿を消してしまいました。これが、不動金比羅吉祥寺の尊像だと言われています。
 なお、これから後、このお寺の院号を金寿院と改めたそうです。以来、霊験あらたかなものがあり、善男善女の信仰も多いそうです。
なお、因みに言っておきますと、金比羅満願寺は、聖武天皇の天平年間(729~749)の昔、道慈律師の開いたもので、その後、弘法大師が高野山開創後は、高野山直末として有名な僧侶が多く当たっています。また、霊仙山の城主、中川山城守の祈祷所になっており、江戸時代には、松山、今治両藩主の信仰も厚かったと言われ、地方有数のお寺になっています。建造物は、惜しくも天正十三年(1585)に秀吉の軍の霊仙山城の総攻撃に際し、災いを受け、ことごとく焼失してしまい、その後、中興再建され今日に至っています。

所在地:今治市朝倉下

31.石中寺の由来

富士山をはじめ日本の高山は、たいてい役行社<えんのぎょうじゃ>(役小角<えんのおず>とも言います)が開拓したと言われています。また、その間に数々の仙術を披露しており、「日本霊異記」と言う書物には、孔雀王咒法と言うもので空を飛んだり、鬼神を駆役する等、種々の奇蹟を伝えています。

ところで、四国霊峰と言われる石土山(瓶ヶ森とも言い、山岳愛好家は瓶の愛称で呼んでいます。)も役行者の開創によるものと言われています。
 この役行者が、全国行脚の途次、大宝元年(701)に清水の中寺の石中寺の不動院に寄られて、ここを根本道場として、孔雀明王、不動明王、愛染明王の法の功徳によって大誓願を行いました。すると、不思議なことに、空中から五色の雲が下り、楢原、石土、豊岡、象頭の四大権現が現れました。そこで、役行者は、石中寺の住職峰仙とともに、石土蔵王権現の彌山を決めるため、石中寺の東に向かって行き、高くて険しい山々を駆け巡り、草衣木食を以って難行苦行を積んだ末、石土山瓶ヶ森で、遂に尊い大権現の霊感に浴しました。早速この石土の地に安置申し上げるとともに、清水の石中寺にも本尊としていただいたと言うことです。このようなことがあって以来、石中寺がずっと、石土総本山として信仰されるようになりました。その後千有余年間、いろいろ時代による興亡はありましたが、近くの霊峰石鎚とともに、多くの信者を有し今日に及んでいます。
 特に、昭和のはじめに、清水の小笠原観念住職が中興に当たり、かなり規模の大きい壮大なお寺になり、更に、昭和二十二年(1947)天台宗寺門派より独立し、石土総本山石中寺として、全国的にその名を広めるまでに至りました。しかし、残念なことに、二十数年前経済的な面で思わしくないことがあり、建造物がこわされ、御本尊が他に移されています。 

所在地:今治市中寺

32.三十三年に一度今治へ帰った仏像

神宮の堂の元より約1キロほど奥に、堂が尾という深山があり、昔、ここに小さなお堂があって、善導大師(613~681)という唐の高僧が作られた阿彌陀像が安置されていました。
ある時、松山藩松平定直(今治藩主松平定時の長男で、延宝二年-1674-に松山藩松平定長の養子となり、定長の歿後、松山藩主となった人です。)が、阿方の堂の下のあたりを通っていた時、堂が尾の付近に霊光が輝いているのを見つけ、その光のもとを尋ね、阿彌陀如来像を拝したそうです。そこで、さっそく阿彌陀さんを松山の藩主の菩提寺である大林寺(浄土宗)へ移して、てい重にお祭りしました。また、ちょうどそのころ、延喜の乗禅寺の御本尊の如意輪観世音菩薩の霊験があらたかであるという説が広まり、松山の東野へ慈照堂を建立してお祭りすることになりました。
ところが、その後、正徳五年(1715)に藩主定直は、両方の仏像とも、元のお寺へ帰りたいという夢のお告げをみました。如意輪観世音菩薩は、元々安置していた延喜の乗禅寺(真言宗)へ、帰ることになりましたが、阿彌陀如来像の方は、たえず南無阿彌陀仏と念仏を唱えてくれるならば、三十三年に一度、今治の方へ帰ったのでよろしいということでした。それで、それ以来、阿彌陀像は、三十三年に一度神宮の西明寺へお迎えする時には村人総出で、カネを鳴らし、念仏を唱えて盛大にお迎えしました。この阿彌陀さんは、残念なことに第二次世界大戦で松山市が空襲にあった際、焼失したということです。しかし、明治四十四年(1911)ごろ、町谷の仏師に依頼して昔の仏像と寸分違わぬ仏像を作り、現在も安置しているそうです。ところで、真偽のほどは別として、大林寺で戦災にあった仏像は、昔の仏像ではなく新しく作ったものであると言う説も一部にあります。
いずれにしろ、元の仏像は、古い書物によると、福岡県福岡市の善導寺(浄土宗)、神奈川県鎌倉市の光明寺(浄土宗)の御本尊とともに、日本三体の一つにあげられるという説もあるほどで、かなり立派な仏像であったようです。

所在地:今治市神宮

33.海中出現の阿弥陀如来

昔、弘法大師がこの地方にお出になられた時、瀬戸内海の海上の風波が激しい日が幾日も続き、海上を往来する人々を大変苦しめたことがありました。そこで、弘法大師は、瀬戸内海を眼下に見下すことの出来る八幡山の頂上を、御祈祷の場所とされ、海上の平穏をお祈りになりました。

すると、不思議や、渦まき荒れ狂っていた海上のある一点から、五条の光が海一面に、目もまばゆいほどキラキラと輝き出しました。その光のさす中心点あたりへ、村人達がてんでに舟を漕ぎ寄せて近づいてみると、木彫りの阿弥陀様が浮かんでおりました。そこで、早速その仏像を持ち帰り、お堂を建立して御本尊様としてお納めしました。このお堂が現在四国八十八か所五十七番の札所になっている栄福寺(真言宗)(今治市玉川町八幡)です。この阿弥陀様は現存していますが、等身よりやや低い目で、一本造りになっていて、刻まれた衣のひだのあたりに潮がふいたあとらしいものが残っており、この仏像の縁起を物語っています。こういったところから、この阿弥陀様は別に「海中出現の阿弥陀如来」とか、「海中より御出現の仏像」と言われています。こうした相当古い、そして珍しいいわれを有している仏像だけに、相当歴史的に価値のあるものと考えられますが、残念なことに台座が完全ではないので、今のところ、余り高く評価されていないようです。

所在地:今治市玉川町

34.不思議な梵鐘と二大明王

阿方にある四国八十八か所の延命寺(真言宗)は、行基菩薩が開いて後、嵯峨天皇の勅願によって、弘法大師が再会されたと言われておりますが、その昔は、今の延命寺より四キロほど北の近見山の山頂にありました。-現在の場所に移ったのは、享年十二年(1727)で、六度目の移転になります。その前は、少し離れた本村にありました。-近見山の山頂にお寺があった頃は、宝鐘院と言う七堂伽藍の荘厳なお寺でした。そして、寺の西の谷には、鐘撞堂があって、立派な貴金属でつくられた鐘があり、朝夕素晴しい音色を周囲に響かせていました。その後、五度の兵火と、一度失火があって、そのたびに場所がかわり、やっと、現在のところに落着いて今日に至っています。

ところで戦国時代に、大分県の臼杵の大友の軍勢が乱入して、梵鐘と、不動明王、四大明王の二童子が持ち去られたことがありました。梵鐘は戦争の際に、相図に使っていましたが、夜がくると、決まって自然に「いぬる。いぬる」と鳴り出すので、後難を恐れた大友方は、舟に積んでもとの所へもどしにやってきました。-一説には、梵鐘を叩いた際に、「いぬる」「いぬる」と言う音色で鐘が鳴ったとも言われています。-ところが、どうしたはずみか、舟が自然に傾いて、梵鐘が海中深く没してしまいました。それでしばらくの間、お寺も梵鐘なしでしましていましたが、宝永年間(1704~1710)に、新しく梵鐘が建立され今日に至っています。この宝永年間に出来た梵鐘についても、その後、松山藩が大砲をつくるために、お寺の鐘を徴収した際に、城の片隅に置いていたところ、自然に「いぬる」「いぬる」と鳴るので、送り返したと言うようにも言われています。この梵鐘には、寺の由来を刻んだ銘文があり、音響のよさとともに、この近郷では、相当立派な価値のある梵鐘の一つに数えられています。戦時中、文部省から文化財の調査に調査官が来る途中、空爆にあって立ち消え、そのまゝになってしまたのが、関係者には惜しまれています。
 また、一方大友方が、持ち帰った二つの明王を城中に安置して、護持を祈っておりましたところ、夜がくると奇光を放つので、近見山の谷に帰しました。ところが、不思議に、自然に山谷がひどく鳴動したり、怪しげな光が、天を衝くと言った状態が重なる始末、僧侶がこの二大明王を見つけて、本堂に還座したところ、奇異な現象がぴたりと止むようになったとか、そして、寺が火災に罹った時にもこの二大明王を祭っている本堂は、火災から免れたそうです。二大明王は、その後いたみがひどく、大部分は修理された様子ですが、現在も御本尊として祭られています。

所在地:今治市玉川町

35.須佐之男命<すさのおのみこと>と旧乃万村

昔、紀伊の国(今の和歌山県)から幾日も航海されて、現在の大西町九王(旧大井村)のあたりにお着きになった須佐之男命は、天の磐く樟船(普通『磐く樟船』と言えば神話に出てくる伊

弉諾尊<いざなぎのみこと>、伊弉諾尊の子、蛭児(伊弉諾伊弉冉<いざなぎいざなみ>二神の間に最初に生まれた子)を乗せて流したという、楠の木で造った堅固な船をいいますが、ここではこの船とは関係なしに、同型の楠の木でつくった船だといわれています。)で品部川を上られました。船から降りられた須佐之男命は、更に牛に乗られて、今の宅間、野間、延喜を経て阿方のあたりを通られようとしました。ところが、阿方の村人の中に、随分意地の悪い者がいて不浄物をかけるなど色々と悪だくみをし、わざと須佐之男命の通られるのを邪魔しました。須佐之男命はいたし方なく、矢田の方にまわられ神宮の地にお着きになりました。ご自身が乗って来られた磐く樟船を置かれた神宮の奥の熊野峰というところで、牛に食物を与えてご自身も休まれました。この磐く樟船が、長い年月の間に化石になったといわれており、今は摩滅して跡を見ることは出来ませんが、古老の話では、以前は須佐之男命のご足跡と牛のえさおけの跡が残っていたそうです。-「予陽俚諺集」には駒(馬)の足跡とありますが、この地の人は牛のように語り伝えています。-古老の話では、明治の始めころまでは、野間神社の祭礼の時に、この石の上に神輿を乗せてお祭りをしたということです。野間神社には、御祭神のお一人として須佐之男命をお祭りしておりますが、その元をたぐれば、案外この巨石を対象として発達してきたのかもしれません。一般にこの巨石は磐境<いわさか>とか磐座<いわくら>といって、神がご座されているものだと考えられていたようです。この地の人は、この巨石を「石神さん」と呼んでいます。この「石神さん」は、野間神社から約一キロ足らず離れた向という部落の奥にあります。なお、この阿方と山路を、須佐之男命が通らなかったということから、旧乃万村のうち阿方と山路は、野間神社の氏子に入っていないのだといい伝えられています。今治市に合併(昭和三十年-1955-)前の乃万村時代は、春のお祭りの日どりも違っていました。それと、今一つ興味深いことは、この神宮の地で毎年十月に五回にわたり「わらこし」(詳しくは「わらみこし」といいます。)と言って新しいわらで作った五体のみこしを子供がかついでまわり、あとで甘酒をよばれるという風習がずっと以前から残っています。この甘酒をよばれるということは、例の神話に出てくる須佐之男命が八岐の大蛇におけに入れた八塩折の酒を飲ませて退治したことに、また、わらこしをかつぐということは、大蛇退治のことが縁となって須佐之男命の妃となられた稲穂の神様といわれている奇稲田姫<くしなだひめ>に、それぞれなんらかの関係がありそうです。
 また、このあたりで亥の子の時に子供がよくつく、俗にいう「ごうりんさん」は、須佐之男命が乗っていた牛がある時、石につまずいてけがをしたということで、縁起をかついで、この野間神社のある神宮では全然つかないという風習が昔から残っています。そのかわりに、勇猛果敢なご性格の須佐之男命のみ心をお慰めするという意味で、神社の境内で、子供たちが、相撲をとるという風習がずっと続いています。

所在地:今治市神宮

36.虎退治をした若彌尾命

昔、神巧皇后が竹内宿禰<すくね>とはかり、御懐妊のまゝ男子の姿を装い、舟軍を率いて三韓征伐をされた時、(201年)安芸国(今の広島県の西部)の飽速玉命の孫に当たられた若彌尾命<わかみをのみこと>が、軍卒の一人として大活躍されことがありました。。

神功皇后が新羅を討たれようとした日に、大きな虎が突然いずこからともなく現れ、皇后の乗っておられる船をめがけて、猛然と襲いかかってきました。軍兵は皆戦慄き、恐れてあわてるだけでした。若彌尾命は、もしも皇后に危害を加えるようなことがあっては大変と、即座に弓に大きな矢をつがえ、力いっぱい引き、狙いを定め一矢で見事に射止めました。このことがあって、軍兵の士気は一層鼓舞し、大いに勝利を収めたと言われています。皇威を充分外国にまで発揮して御凱旋になった皇后は、大変喜ばれ、この戦功をたたえて、若彌尾命を怒麻(野間)の国造に任ぜられました。この若彌尾命は、以前からこの地にお住いになっておられた野間姫命と結婚され、お二人で仲良く怒麻(野間)地方を開拓されました。現在、お二方とも野間神社(今治市神宮)の御際神としてお祭されています。
 この話のあら筋は、「先代旧事本記」に、また、若彌尾命が怒麻国造に任ぜられたことについては「国造本記」に記されています

所在地:今治市神宮

37.長慶天皇と牛馬

今治市玉川町の奈良原山上(1042メートル)には、南北朝の争乱にまきこまれた悲劇の天子といわれている第九十八代長慶天皇(1343~1394)の遺跡があります。長慶天皇は、文中二年(1373)八月に、人目に触れないように難を避けて、伊予の国府から玉川の里にのがれましたが、更に敵軍のきびしい追跡を受け、奈良原山深くその身を隠されました。

その間、長慶天皇にまつわる牛馬にゆかりのある珍しい地名が残っておりますので、二、三紹介してみましょう。
 玉川町大下鮎川里(旧鈍川村)に、『牛追』(うしおい)と言う珍しい地名があります。長慶天皇がのがれられる途中、あめ色の牛を追っている農民に出会いました。この農民が、「歩いていかれるのも難儀なことでございましょう。この牛を差し上げますから、この牛にお乗りになってお逃げください。」と言って勧めるので、牛に乗って逃げました。その際、追手をくらますため、牛を後向きに歩かせて、ひづめの跡を残しながら、あちこちと追ったそうで、牛追の地名もこういったところからきているといわれています。
 また、玉川町鬼原(旧鈍川村)と玉川町長谷(旧久和村)の境の道筋に、『馬斬』(うまきり)と言う変わった地名があります。これは、牛に乗って逃げられる長慶天皇に迫る追手の軍馬を、長慶天皇の家来がこの地で斬り捨てたところからきているといわれています。また、一説には、敵軍が天皇を追って馬斬まで来た時に、馬が立ち止まってしまって、前を向いて進まなくなったので、大将が腹をたてて、馬を二、三頭斬り捨てたともいわれています。斬り捨てた時に、噴水のように鮮血が飛び出し、端にあった大きな石のかたまりに付着したと伝えられ、その跡形や、ひづめの跡といわれるものが残っていたそうですが、数十年前に道路拡張のために砕かれてしまい、今はその跡はなくなり、わずかに、道の片すみに、石のかたまりの一部が名ごりをとどめています。
 また、染井吉野桜の大群地帯として知られていた(今は枯木になってしまっています。)千疋峠(玉川町木地、旧鈍川村)についても、一時勢力を盛り返した長慶天皇の千匹の馬をつないだとか、いろいろ馬にまつわる話が残っています。この千疋峠を越えて敵軍を破った天皇方が、『竹成』(「たけがなる」とも「たけのなる」とも言います。-玉川町-)のあたりで閧の声(武士たちが「一齋にあげる叫び声)をあげたとか。『竹成』の地名は、「閧成」(ときがなる)がなまって、「たけがなる」となったのだと伝えられています。しかし、多勢の前には所せんかなうことが出来ず、やがて逆襲を受けて破れ去り、長慶天皇は、山中深く身を隠されることになりました。
 以上のように牛馬にまつわる伝説が多い長慶天応は、牛馬の守護神として、奈良原山上に、奈良原神社の祭神としてお祭りされており、近郷の人々の参拝も後をたちません。なお、長慶天皇のご行動や亡くなられた土地については、諸地方にいろいろの伝説が残っており、このあたりの伝説そのものについても、他にいろいろいわれていますが、ここではその点に触れることを省略します。

所在地:今治市玉川町鈍川

38.鉄人退治と越智益躬

今から千三百数十年の昔、(三十三代推古天皇の時代)、三韓に鉄人(鉄大人ともいいます。)と名乗るとても強くて悪賢い武将がいました。鉄人は、その名のように常に鉄のよろいで全身を固め、その正体を隠していました。鉄人は三韓の兵八千余人を従え、勢いに乗じて筑紫の国(九州の古称)にやって来ました。日本軍も防戦に努めましたが、やっとのことで包囲したかと思うと、風雨の術を使って惑わすという有様で、常とうでは手のほどこしようがなく、各所で大敗し、多くの戦死者を出しました。鉄人は人を殺しては食うといううわさがあり、とても悪らつな方法で人々を痛めつけたので、年寄りや女、子供は山林に身を隠し、日夜恐怖におののき、そのあわてぶりは目もあてられぬほどでした。筑紫の国で猛威をふるった鉄人は、更に都の方へ攻め上がろうとする気配をしめしました。さっそく、朝廷の命により、文武両面に秀でたこの地の越智(小千)益躬<ますみ>が、討伐の将としてつかわされることになりました。とりあえず、益躬が三島明神へ七日七夜おこもりをしてお祈りをしたところ『鉾を鏃にして隠し持ち鉄人のすきをうかがって誅す(殺す)べし』と言う神のお告げがありました。いざ鉄人に立ち向かってみると、うわさ以上に荒っぽく、武力では到底勝ち目のないことを知りました。そこで、益躬は、鉄人の家来にしてもらい、日夜そのすきをうかがうことに努めましたが、用心深い鉄人にはほとんどそのすきがありません。やっとのことで、馬上にある鉄人の足の裏に、わずかに穴があいているのを見つけました。ある時、周囲の景色にみとれ、興にふけって油断をしているのを、三島明神のご霊験の現れとばかり、ふところに隠していた鏃を投げつけ、うまく命中させて討ち取りました。大将を失い、あわてふためく鉄人の家来どもを散々に打ち破り、逃げた者を生け捕りにし、手をあわせて助命を乞う者を獄舎につなぎ、鉄人の委細を問いただしました。委細を知った益躬は、討ち取った首を手にし、宮中に参上し、朝廷に鉄人のことについて申し上げました。朝廷は非常に喜ばれ、益躬に伊予の国(今の愛媛県)越智郡の大領(郡の長官)の役を任じました。その後、益躬は播州(今の兵庫県)大蔵谷に一社を建立して、鏃を奉納したということです。
益躬は、また若い時分から仏教を深く信仰し、昼は法華一部を、夜は念仏をいつも唱えることを怠らなかったそうで、実に立派な往生を遂げたと伝えられており、「今昔物語」(巻十五、本朝付仏法『伊予の国越智益躬往生ものがたり』)に次のような話が書かれています。西の方に向かってきちんとすわり、手をあわせて念仏をとなえながらこの世を去りましたが、その時、村人たちは空に微妙な音楽がかなでられたのを耳にしました。また、何ともたえようのない香ばしい薫りが家々に満ちあふれたそうです。この余りにも不思議な出来事に、村人たちは、非常に感激し、涙を流して敬意を表したということです。
旭町五丁目にある鴨部神社は、神部大神として益躬をお祭りした神社です。

所在地:今治市旭町

39.南朝の忠臣脇屋義助

 脇屋義助(1307~1342、没年については異説もある。)は南北朝時代に南朝の中心となって、兄新田義貞とともに活躍した人物でした。脇屋家は足利氏とともに源氏から出上野国(今の群馬県)の新田郷脇屋の豪族でした。建武の新政の時、後醍醐天皇の命に従い鎌倉幕府を攻めて北条氏を滅亡させました。その後、足利尊氏が後醍醐天皇側に背いてから後もあくまでも南朝の天皇側に従いました。中国四国の総大将として南朝の勢力集結をはかり、業半ばにして病に倒れました。

世田山(東予市と今治市の境)の城主、大館氏明は甥にあたります。義助の廟並びに神社は国分寺の東約500メートルの所にあります。(今治市国分寺4丁目4-56)
公家を忠心とした建武の新政が崩れると吉野側の南朝と京都側の北朝の二つの政府が互いに正統と主張して争いました。南朝を支持したのは建武の新政権の中で優遇された新田、楠木、名和などの各氏の武士、皇室領などと関係をもつ寺社勢力、同族部内の対立で対抗上南朝に走った者でした。これに対し足利尊氏が立てた持明院統の光明天皇の朝廷側北朝は多数の武士に支えられて圧倒的な優位に立っていました。南朝の忠臣義助は兄義貞と行動を同じくすることが多く東奔西走しましたが、暦応元年(1338)藤島の戦い(福井市灯明寺町)で義貞が斯波高経の軍に敗れ戦死してからも軍をまとめて奮闘しました。北陸中部を経て吉野に入り、懐良親王が九州へ去った後伊予の宮方の要請で四国総大将として下向することになります。そのことが太平記の巻二十二の「義助豫州下向事」と「義助朝臣病死事付鞆軍事」の二つを抜粋しながら簡単に紹介します。
 「去る程に、四国の通路開けぬとて、脇屋刑部卿義助は、暦應三年四月一日勅命を蒙って、四国西国の対象を承って、下向とぞ聞えし……」(そうしているうちに四国への通路が開けたので脇屋刑部卿義助は暦応三年四月一日勅命により四国中国の大将として伊予の国へ出発されるとの事であった。……)「されば大船数多汰へて、四月二十三日、伊予国今張浦に送り著き奉る。」(それゆえ大船を多数仕立てて、四月二十三日に伊予国の今治の浦へ送りつけられた。)「大将下向に彌勢を得て、龍の水を得、虎の山に靠るが如し、其威漸く近國に振るひしかば、四國は申すにおよばず、備前、備後、安藝、周防乃至九國の方までも、又大事出来ぬと云わぬ者こそ無りけれ、されば當國の内にも、將軍方の城僅に十餘箇所有りけるも、未だ敵も向はぬ先に、皆聞落としてんければ、今は四國悉く一統して、何事か有るべきと憑敷く思ひあへり。」(大将脇屋義助の下向によって水を得た龍、山に放たれた虎のように勢いづいて威を近国に振ったので四国はむろんのこと備前<岡山県南東部>備後<広島県東部>安芸<広島県西部>周防<山口県東部>など九か国の方までもまたまた一大事が起こったという噂でもちきりだった。それゆえ伊予の国内にも十数か所に足利方の城があったが、まだ、敵が押し寄せもしない先に噂を聞いただけでみんな逃げ出してしまったので今や四国全土が南朝の手に統一されて、前途に大きい希望を抱くことができるようになり末頼もしく思われた。)「斯る處に、同五月四日、國府に坐られたる脇屋刑部卿義助俄に病を受けて、心身悩亂し給いけるが、僅かに七日過ぎて終に敢なく成り給ひにけり。」(ところがその年の五月四日国府に滞在していた脇屋刑部卿義助が突然発病して悶え苦しみ僅かに七日間で死んでしまった。)〔( )の現代語訳は主に「日本国民文学全集」第十巻太平記尾崎士郎訳河出書房を参考にする。〕
 このようにして武家の北朝と対立した南朝の忠臣義助は本営を国府に置いて味方を募り勢いを盛り返そうとしましたが、やんぬるかな病にかかり急死するという思いがけぬ事態となってしまいました。年僅か三十六歳でした。義助の病死に乗じて武家の細川頼春が讃岐<今の香川県>から伊予へ入り宇摩郡、新居郡から周桑郡の世田城を攻めたてました。城主大館氏明は衆寡敵せず善戦空しく敗れ伊予の南朝方の勢は衰えていきました。なお、強力無双で知られた篠塚伊賀守が世田山と峰伝いの笠松城(朝倉村)でただ一人敵中を突破し陰の嶋(現在の魚島とされている)へ逃れたという武勇伝が太平記に書かれています。(このあと40強力無双篠塚伊賀守重広に出てきます。)義助の病死についてはいろいろに言われていますが一説にはおこり(瘧と書く。隔日または毎日一定時間に発熱する病)ではないかといわれています。戦が好転のきざしがあっただけに志半ばの義助の死は南朝側にとっては大打撃でした。彼の功績をたたえ寛文九年(1669)七月国分寺山の西麓の字谷の口に今治藩士町野弾右衛門・首藤又右衛門・国分寺住職快政・国分村庄屋加藤三郎右衛門等の尽力により墓碑が建立されました。高さ80センチ、3メートル四方の石壇の上に高さ約1.5メートルの立派な石碑で、正面に「脇屋刑部卿源義助公神廟」とあり左右にやや小さい目の字で「清和天皇十七代」「暦応三年五月十一日」と彫られています。また、文政二年(1829)廟の近くに儒学者佐伯容斉が貝原益軒(1630~1714、江戸時代前期の儒学者・教育家等)の義助の徳をほめたたえて書いた「脇屋公賛」と石に刻んで奉納しています。また、今治藩家老江島爲信は灯籠や玉垣を寄進しています。明治三十四年(1901)国分寺住職中野堅照の提案によって脇屋家の子孫の人たちが「脇屋会」を創設し600年遠忌の昭和十六年(1941)には全国的な「脇屋同族会」を結成しており、平成三年(1991)には650年遠忌を盛大に行っています。また、大西町の脇は義助の亡きがらを葬った所といわれ、今も脇塚が祭られていると言われています。

所在地:今治市国分

40.強力無双篠塚伊賀守重広

今治市の桜井と東予市の楠にまたがる山に世田山(標高328・2メートル)が、またこの山の西に接した峰続きに笠松山(標高328メートル、朝倉村)があります。いずれもその昔古城のあった所で、武士たちが奮闘したドラマが秘められています。
南北朝時代の昔、笠松城下に篠塚伊賀守広重という武士がいました。伊賀守は、南北朝の武将新田義貞の家臣で、四天王の一人として強力無双でその名を天下にとどろかせました。新田一門の国府城の脇屋義助、世田城の大館左馬助(左馬介とも書きます。)らが南朝方の勢力を取り返すように努めましたが、義助が興国三年(1342)に病死してから足利方の細川頼春勢の猛攻を受け、世田城、笠松城と次々と落とされてしまいました。

その間の氏明や伊賀守の奮戦の様子が『太平記』巻二十二に「大館左馬助討死事附篠塚勇力事」と題して詳しく書かれています。太平記の記事は多少大げさに述べている面があり、必ずしも全部事実とはいえないと思いますが、落城のてんまつが手にとるように生き生きとよく描かれています。次に原文をまじえながらその大要を述べてみたらと思います。
 川之江城を攻略した細川勢の大軍が一万余騎を七手に分けて、八月四日から十日余りにわたって世田城を攻めたてました。城内では主力として信頼されていた岡部出羽守が、一族四十余人とともに日比澳(西条の氷見沖ではなかろうかといわれています。)で自害してしまい、その他の兵士も千町原(周桑平野の一部といわれています。)の戦いで戦死したので、手薄になってしまい、細川勢の攻撃を防ぎようもありません。氏明は、九月三日の明け方、主従十七騎で一の木戸(城門)へ打って出て、五百余人の敵をはるかふもとへ追い払って、一せいに腹を切って最期を遂げました。それまで防ぎ矢を射ていた兵士たちも、もはやこれまでと敵と取組んで死んだり、自分の陣屋に火をかけて自害する者が続出しました。このような中にあって篠塚伊賀守一人だけは、大手の十二の木戸をことごとく開けて突っ立っていました。それではその時の伊賀守の奮戦の様子を原文(一部現代語訳をしています。)で紹介しておきましょう。
 紺糸の甲に、鍬形打ちたる冑の緒を縮め、四尺三寸有りける太刀に、八尺余の金撮棒脇に挟みて、大音揚げて申しけるは、外にては定めて名も聞きつらん、(名を聞いたであろう、)今近附いて我をしれ、畠山庄司次郎重忠に六代の孫、武蔵国に生長って、新田殿に一人当千と憑まれたりし篠塚伊賀守爰にあり、討って勲功に預れと呼はりて、百騎許り控えたる敵の中へ、些も擬議せず走り懸る、(少しもためらわず走りにかかった)其勢事柄勇鋭たるのみならず、兼ねて聞えし大力なれば、誰かは是を遮り止むべき(誰が遮り止めることができようか、誰も遮り止めることはできない。)百余騎の勢、東西へ颯と引退いて、中を開いてぞ通しける、(道の中を開いて通した、)篠塚馬にも乗らず、而も誰一人なれば、何程の事か有るべき、誰近附く事無くて、遠矢に射殺せ、返合せば懸悩して討てとて、(ひき返して来たら懸悩して撃ちとれとて、)藤、橘、伴の者ども、二百余騎跡に附いて追懸くる、篠塚些しも騒がず、小歌にて閑々と落行きけるを敵あますなとて追懸くれば、(敵が「逃すな」と追いかけると、)立ち止まって、嗚呼御辺達痛く近附いて(あまり近付いて)首に中違ひすなとあざ笑うて、件の金棒を打振りければ、蛛の子を散すが如く、颯とは逃げ、又村立って跡に集り、(一たんは逃げ、やがてむらがって跡に集り、)鏃を汰へて射れば、某が甲には旁のへろへろはよも立ち候はじ、(立つまい)すは此を射よとて、後を差向いてぞ休みける。(さあここを射よ、と言って後を向いて立ち止まる)されども名誉の者なれば、一人なり共若しや打止むると、(誰か一人撃ちとめる者があるかもしれないと)追懸けたる敵二百余騎に、六里の道を送られて、其夜の夜半許りに、今張浦にぞ著きたりける。(その夜の夜半ごろに、今張の浦についた。)(『物語日本史大系』第五巻、-太平記上-早稲田大学出版部発行、<昭和三年>408頁、ふりがなの一部は現代かなづかいに訂正しています。まだ筆者の方で適当にふりがなをつけた箇所もあります。)〔( )の現代語訳は、主に「日本国民文学全集」第十巻太平記尾崎士郎訳河出書房を参考にしました。〕
 伊賀守は、このあと隠岐島(沖ノ島とも書かれ、越智郡魚島と伝えられていますが、広島県の因島市という説もあります。)へ落ちのびます。落ちのびる時、敵が乗り捨てている船によろいを着たまま、波の上五百メートル余りを泳いで乗り込みました。恐れおののいている船頭やかじ取りをしり目に、二十人余りでやっと持ち上げることのできるいかりを軽々と引き上げて、一四、五尋(約25~27メートル)もある帆柱を軽々と押し立てて、屋形の中へ入って高いいびきをかいて寝込むなど、強力無双ぶりを発揮したということです。
 その後、隠岐島から大浜にやって来て、ここで余生を静かに送ったという俗説もあります。一部では大浜南の薬師寺の近くのお墓が伊賀守のものだといわれています。大正時代(1912~1925)に墓を掘り起こしたところ、すばらしい体格のよい人骨や刀剣が出土されたそうです。伊賀守が疫病(彼の場合、チフスではないかといわれています。)にかかり亡くなったとかで、伝染病や腹痛にご利やくがあるといわれ、参詣者もぼつぼつ見られます。伊賀守の墓については、魚島にもあるといわれ、異説があってはっきりしたことはわかりません。なお、近見の伊賀という所は、伊賀守と何らかの関係があるのではないかという人もいますが、これも詳しいことはわかりません。

所在地:今治市桜井~西条市楠

41.四国一伝流南葉一本斉

今から約四百年程前の永禄元亀年間(1515~1573)の昔に、四国一伝流の元祖と言われた南葉一本斉が、修行のため諸国を遍歴中、この地方に来ていて、清水地区で瘧(隔日または毎日一定時間に寒熱を発する病気でマラリヤのようなもの)に罹り、五十嵐の地で亡くなりました。

四国一伝流というのは、棒、腰の廻り太刀、薙刀等の体術の流儀で「武術流祖録後輯流名」と言う有名な武術の本にもその名前が出ており、全国的にもかなり知られていたようです。一本斉は、奥州伊達郡(この場合今の福島県伊達郡)の生まれで元奥羽西国の主、鎮守府将軍藤原秀衡朝臣の子孫であると言う以外に詳しい経歴はわかりませんが、四国一伝流の名を全国にとどろかせた俗に言う豪傑であったようです。多くの門人は、一本斉の死を痛み、墳墓を建てて懇ごろに弔いました。ところが、長い年月の間に墳墓は苔むし、荒れ放題になってしまいました。それを寛政八年(1796)に資金を出しあい、新しい立派な石碑を建ててお祭りしました。今、この石碑は五十嵐にありますが、石碑の全面には『南葉一本斉北窗乱関之墓』とあり、側面、背面に、一本斉の略歴や建碑の由来が簡単に銘記されています。近郷近在の人々は瘧(隔日または一定時間に発熱する病)の神様として一本斉を崇め奉り、参詣者も多いそうです。
 今から約五十年程前の大正九年(1920)に、四国一伝斉参百五拾年祭記念として、五十嵐の浄寂寺(臨済宗)の境内で、この四国一伝流の流れをくむ者が、浅山一伝流や天真用流の人々と合同(檜垣助一五段等七十余名)で、くさりがま、棒、腰の廻り太刀、剣、薙刀、捕縛等を用いて妙技をふるったということで、今も浄寂寺にその時の奉納額が掲げられています。

所在地:今治市桜井~西条市楠

42.龍門山城主武田信勝の最期

天正十年(1582)十二月八日、小雨まじりで風の強い日に、白馬に乗った軍勢四、五十騎が朝倉村浅地の長円寺谷に攻めて来ました。敵軍は、ここに馬を置き、龍門山城へ攻め登り、城へ火をかけました。不意を打たれ、急のことであったので、城の中は混乱をきわめ、散々の体で逃げ惑う始末、城主近江守武田信勝は、城の北谷にやっていって声をはりあげ「敵は誰か、名は何と申すか、早く名のれ……」と呼ばわりながら奮戦しました。

しかし、多勢に無勢、加えて裸身同様の身、さすが気丈な信勝も深手を負い、やむなく城を明け渡しました。戦いに疲れはて、空腹にたえながら落ち延びていたところ、川上から里芋の親頭が流れているのを見つけました。信勝は、それを拾って食べ、暫く飢えをしのいだと言うことです。その後、信勝は、周桑郡三芳町黒谷の野辺で百姓に討たれて最期を遂げました。-戦場で討死したと言う説もあります。なお、墓は朝倉村浅地にあります。-朝倉村浅地に馬木戸と言う地名が残っていますが、信勝の後裔は不吉のいわれありとして、一切ここでは白馬を飼わなかったと言うことです。
 なお、この信勝の苦しみをいつまでも忘れないようにするため、また先祖のことを偲ぶために、毎年元旦には、餅を入れた雑煮の代わりに、里芋の親頭を雑煮にして食べているとのことです。この信勝のことについては、今治市五十嵐と隣接した玉川町八幡の武田寅吉氏方の「南海道伊予国源姓武田系図」に掲載されています。

所在地:所在地:今治市朝倉上

43.槍の名人田坂槍之助

戦国時代のころ、来島城主久留島氏丹後守康吉の家臣に、田坂槍之助(鑓之助とも書きます。)貞掾という武芸に秀でた来島水軍切っての豪勇無双の武士がいました。槍之助という名は主君より命名されたものだそうで、彼の槍の妙技はすばらしいものであったということです。
ある時、来島瀬戸を十反帆ばかりの船に乗った芸州(今の広島県)佐伯氏の家臣二十数名が、海の通行税である帆別銭を払わずに強引に通過しようとしたことがもとで、槍之助と決闘になったことがありました。槍之助が小舟に乗ってこぎつけ「帆別銭を出して行け、天下の法をないがしろにする奴はほうっておけぬぞ。」とどなりつけると、多勢を頼んだ武士どもは、「この広い海を通さぬようにと関所を設けたりするのは傑作じゃ、帆別銭が

ほしいのならどこまでもついてくるがよい。」とあざ笑う始末、槍之助は腹にすえかね、「もはや容赦はならぬ。問答無用なり。」と槍をしごいて突きかかりました。相手方の武士たちもメンツにかかわると、刀を抜いて防戦しましたが、たちまちのうち、二人が突き伏せられました。海上の戦いは、槍之助にとってはお手の物、潮に流されて船が桜井の志々満が原のあたりから江口の浜辺に着いた時には、八人が突き倒され、六人が深手を負わされるという有様、負けいくさに色を失った武士たちは、海上での戦いは慣れぬゆえ、所せんかないっこなしと考え、陸上で勝負をしてくれるようにと、両手を合わせて懇願しました。義理人情に厚い槍之助は、相手方の望みをかなえ砂浜で果し合いをすることを聞き入れました。ここでも、七、八人の武士にとり囲まれながら、たちまちのうち五、六人を突き伏せたり、傷を負わせたりしましたが、そこは人間、ついに力つき深手を負い、打たれて首を取られてしまいます。しかし、生き残った相手方の武士はわずかに五人、そのうち無傷の者がただ一人だったというから、槍之助の腕前に驚くほかありません。生き残りの武士たちが、槍之助の首を塩づけにして芸州まで持ち帰り、佐伯侯に事情を話して見せたところ、法にそむいた上、たかが一人のために散々な目に会うとは、武士として見苦しきふるまいなりと、即刻全員追放させられたとか。
里人は、法を守るために身命をもかえりみなかった正義感にとんだ槍之助をたたえ、その亡きがらを桜井の入江の浜にねんごろに葬りました。その後、墓前を馬に乗ったまま通れば、必ずもだえ苦しむという奇妙な現象が相い次いだので、里人は、これは迷える霊のたたりではないかと考え、小さい社を設け、江口八幡宮(入江の八幡宮ともいいます。)と称して、その霊をてい重にお祭りしました。-現在この小さい社は、沖浦(旧桜井町沖浦)の江口山(俗に明神山という人もいます。)の頂のながめのよい所にあります。また、現在桜井の網敷天満宮の境内にも小祠が設けられています。なお、小さい社を設けた時に、次の一首を献納して神体としたということです。
槍水の流れ涼しき田坂氏
末まで磨く玉鉾の道
この槍之助の話は、一種の人物伝ですが、異彩を放つ豪傑のわりに、余り知られていない人物であるのでここで、とりあげてみました。
この話は、「河野軍記」や「与陽盛衰記」と言う書物にも詳しく出ています。

所在地:所在地:今治市朝倉上

44.仏さんに閉門を申しつけた河野源六

神さんや仏さんが人間に命令するということはよくあることですが、逆に人間が仏さんに命令するという風変わりな話が残っています。
昔、町谷の歓喜寺の近くの街道に小さなお堂がありました。そのお堂に河野源六とその一族の供養塔が祭られていました。このお堂の前を源六が馬に乗って通っていると、奇妙に決まって馬から落ちるのです。腹を立てた源六は、仏さんに向かって「閉門を申しつける。」と言って、板を斜めに×じるしに打ちつけてしまいました。このことがあって後、源六は落馬せぬようになったということです。
町谷の街道は、今は細いあぜ道程度のものになっていますが、昔はかなり道幅もあったようです。

現在道の上の歓喜寺に移してお祭りしており、お堂のあった箇所は、『河野源六一族之墓跡』(昭和三十四年十一月建立)と言う石碑が建っております。実際は、宝篋印塔で供養塔の一つですが、上に移す時に人骨が大分出たということでお墓として祭られています。源六の経歴については一切わかりませんが、歓喜寺に『源光院徳巌圓智居士神像』(表)『じ大永七丁亥十一月九べい河野苗裔俗名源六』(裏)と書かれた位はいがあります。この位はいから見ると相当身分の高い武人であったようです。大永七年(1527)に亡くなっていますが、これは室町時代の末期に当たります。
 現在新暦八月二十一日が縁日になっており、子供が小部落ごとに金を集めて、お線香、お菓子、果物等をお供えしてその霊をお祭しています。

所在地:今治市町谷

45.忍者・川路小兵衛

昔、今治藩に川地小兵衛という忍者がいました。将監様(今治藩主四代定基候の隠居後の名)や今治藩第五代藩主定郷が、大勢の家来を召し連れ、今の玉川町の野原へ巻き狩に行っての帰り道、高橋のあたりでもう日がとっぷり暮れて、ちょうちんなしには前へ進むことがむずかしくなりました。将監様は、小兵衛を呼び「忍術使いのお前のことだ。何とかしてくれ。」と頼みました。小兵衛がじゅ文をとなえて忍術をかけると、不思議や高橋から今治城下の蔵敷まで道の両側にずらりとちょうちんがともり、あたかも真昼のようになりました。おかげでポカポカと馬のひずめの音も高らかに、全員無事に帰ることが出来ました。ところで、この小兵衛の最期については、やはり忍者らしく、いろいろに伝えられています。宝永三年(1706)に今治藩より追放の憂き目にあいましたが、これについては、勤務状態が悪い上へもってきて、しばしば奇怪な魔術をつかって人を惑わしたかどによるとか、派閥争いの渦中に巻き込まれたためだとか、理由もない妻を手討ちにしようとしたからだなどいろいろにいわれています。また、小兵衛は、追放の命により、讃岐の国(今の香川県)へ向かいましたが、その道中ふとした勘違いから、舟の中で人を殺傷したことがもとで、大島の吉海町田浦で包囲され、斬殺されました。大きな岩の上に腰掛け、刀を抜き、寄らば切るぞの身構えをしている彼を銃で射殺したとか。また、岩の上にいる彼を、ある足軽がねらい撃ちしたところ、何の手ごたえもなく、その近くに干していた衣を撃ったところ、もんどりうって倒れたとか。いろいろ変った話が残っています。大島の島四国一番札所正覚庵(吉海町田浦)を川路さんを呼ぶこともあり、大岩のあたりが小兵衛の最期の場所だと言われています。

 

所在地:今治市高橋

46.弟子に早変りした源吾師匠

江戸時代の終わりころ、山方町の今城という所に、檜垣源吾信一という剣術家がいて、道場を開いて多くの門弟を養成していました。この源吾師匠は豪勇無双である反面、優しくまた頓知にとんだ人であったので、里人からたいそう親しまれました。剣道の練習の合い間は、近くの畑で百姓仕事をするのが日課になっていました。ある日、道場の前で唐うす(踏みうす)でどすんどすんと麦をついていたところ、一人のがん健な体をした武者修行中の男が源吾師匠の家を訪れました。男は「拙者は先生と試合をいたしたく参った者だが、先生はおられんか。」と尋ねました。源吾師匠が「今日はあいにく留守をしていて、先生はいないので、あいすまぬが、またの機会にお来し願えまいか。」と言うと、男は「それではいつまでたってもよいから、待たしてもらおう。」と言って、上がり口の縁側にどっかと腰をおろしました。

そこで、源吾師匠は「あまり待ってもらうのもお気の毒じゃから、拙者が先生が帰られるまでお相手いたそう。」と試合を申込みました。男は「お前らの木っぱでは相手になりそうもないが、一丁もんでやろう。」としぶしぶ承知しました。しばらく両者がにらんでいたが、やあと声がかかったかと思うと、男は源吾師匠の一撃で脳天を打たれ、その場にもんどりうって倒れ気絶してしまいました。気を取りもどした男は、「弟子がこんなに強いのなら、先生はどんなに強いことだろう。参った。参った。」とほうほうの体で逃げ去ってしまいました。してやったりと源吾師匠は腹の底からワハハハ……と大声で笑いました。
この源吾師匠は、居合流派の一つである浅山一伝流の流れをくむ人(第十一代)といわれますが、経歴はほとんどわかりません。山方町二丁目の海禅寺(臨済宗)境内に、源吾師匠の師匠に当たる鈴木重治政一(浅山一伝流伝来十代、寛政四年-1792-歿)の墓があり、その墓碑に建設者の一人として檜垣源吾信一の名前が刻まれています。ちなみに、浅山一伝流については『図説古武道史』(綿谷雪編、青蛙房発行)に「もとは、剣、柔を中心に、小太刀、槍、鎌、忍術、毒害、捕手、杖、棒、手裏剣を総合して、浅山一伝流体術といった。伝統は上州(今の群馬県)碓氷の郷士、丸目主水正則吉(幼名は三之助)に発し、国家彌左衛門を経て浅山一伝斎を中興の祖として諸国に広まった。」とあり、柔剣道の一派で全国的にかなりひろまったようです。

所在地:今治市山方町

47.菅原道真と網敷天満宮

菅公が、左大臣藤原時平のざん言により、都から九州大宰府に左遷されて行く途中、伊予の国(今の愛媛県)の壬生川沖にさしかかった時、暴風にあい、桜井の沖に流されました。ちょうどその時、漁にいあわせた里人が、志島が原の東のすみの江口という所に避難し奉り、てい重にもてなし、砂上にありあわせの船の網を丸く巻いて敷物にして、菅公をお休み申し上げ御心をお慰めしました。

-志島という名は、早く安全にこの地に上陸したという願いから起こったといわれています。-菅公は、この里人の厚意に感謝し、ご自身が、かじの柄に像を刻まれ、形身に残されたそうです。里人は、これを神像として祭り、網敷天満宮と呼びました。また、この時、菅公は潮でぬれた衣と太鼓を浜辺の岩に掛けて干されましたが、今残っている衣干岩と太鼓岩は、その名残をとどめるものだといわれています。例祭の時には、この衣干岩に氏子の人々が鮮魚やその他いろいろな品々を献上するとともに、神輿渡御の第一のお旅所(神輿をしばらくとめておく所)としており、着船のいわれのある昔を追慕しております。
菅公の風波による遭難の伝説は、今述べたよな京都から九州大宰府に左遷された時のものが最も多いようですが、そのほかに、讃岐の国司時代に伊予の国に来られる途次に起こったという変った伝説もあります。
なお、菅公の風波による遭難の伝説は全国的にも多く、綱の代りに網を敷いたり、引いたりしてもてなしたといわれる網敷天神、引網天神、弓を敷いて休んだ跡だとされている弓敷天神、くつを脱いで掛けた場所だおいう沓脱天神、履脱天神、腰を掛けて休んだという腰掛石などその例は多いようです。
ところで、菅公と梅は関係が深いということは皆さんもご承知のことと思います。この天満宮でも梅にちなんだ行事が残っております。一月三日にお口開祭といって参拝する子供の額に菅公ゆかりの梅八の神紋を押してもらい、神生を祈る行事が創社以来の神事として続いております。また、菅公の命日といわれる一月二十五日は、梅花祭という行事が行われています。この日は境内にある梅林の梅を神前にお供えしてご祈とうをし、婦人会の人たちによる俳句会が催されます。これは、しばらくとだえていたものが最近復活した行事だということです。
菅公をお祭した社は、北野天満宮(北野神社)大宰府天満宮(大宰府神社)を始めとして、天満神社、天満社、天満宮、天満天神宮、天満天神社等々、いろいろに呼ばれ、日本全土いたる所にお祭りされており、大小あわせると、実に一万数千社に及ぶといわれています。このように菅公がいたる所で祭られるようになったのは一体なぜでしょうか。配所において悲運のうちに亡くなられた後、大日照りや落雷や暴風雨が再々起こり、一般の人々を苦しめたり、菅公の左遷に関係した上層階級の人たちが、相次いで不慮の災難にあうなど、奇々怪々な事件が起こったことから、人々はこれを菅公のたたりとうわさするようになったからだといわれています。菅原道真の伝説については「天神伝説のすべてとその信仰」(山中耕作編大宰府顕彰会発行<平成四年>)に全国各地の伝説が詳しく出ています。

所在地:今治市桜井

48.菅原道真と碇掛天満宮

仁和四年(888)菅公が、是善公が以前伊予の国司をされていた関係で、伊予の国を視察されました。その帰途、三津の港を船出し、北条の沖合に来た時、急に暗雲たれこめ、嵐となり、大西町星浦あたりまで船が押し流され、航行不能となりました。そこで致し方なく、菅公一行は星浦の砂浜に近いところに碇を下して船をつけられ、近くのとある朽ちはてた苫屋で暫くの間、休まれました。現在星浦にある碇掛天満宮は、以上のようなところからその名がおこったと言われています。それから、菅公はある長者の邸に移られましたが、その時、丁度梅の花が今を盛りと咲きほこっている風景を見て「古里を思ひわびなん梅の花、木毎に咲きて如何に匂はん」と歌を詠じました。

後に大宰府に配流される時にも「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花、あるなじなしとて春な忘れそ」と有名な梅樹の歌を残しておりますが、真偽のほどは別として、一説にはこの両者の歌の梅は同じものを歌ったものではないかと言われています。
この地方にもまだ菅公をお祭りしたお社がぼつぼつ見られ、面白い伝説のネタがあることと思いますが、ここではこのあたりで筆をおきます。

所在地:今治市大西町星浦

49.藤原佐理卿と神額

西暦年中の昔、名筆家である藤原佐理卿が太宰大弐の任が満ちて筑紫(九州の古称)から都に帰る途中、瀬戸内海の海上が毎日ものすごく荒れたため、あちこちで仮泊し大変弱ったことがありました。佐理卿は、神の祟りのあるようなこともないのだがと頭を痛めましたが、ある夜、夢に気高い白髪の翁(三島大明神)が現

れ「このように、毎日風浪がおさまらないのはわけがあるのだ。全国どこのお宮にも神額が掛ってあるが、この大山祗神社のみまだ掛っていないのは全く不本意なことだ。しかし、そうかと言って誰にでも書かすわけにはいかず弱っているところ、丁度、汝が通りかかったので、呼び止めるためにこのような方法を講じたのだ。是非筆を執って欲しい。」と言う信託がありました。早速、佐理卿は身を洗い清めて端座し、船板を利用して力強い筆づかいで『日本総鎮守大山積大明神』と言う神額を書きあげ、大山祗神社に奉納しました。すると、不思議なことに、先ほどまで荒れ狂っていた風浪がぴったり止まりました。お陰で順風に帆をあげて、無事に都へ帰ることが出来たと言うことです。この神額が、現在大三島町の大山祗神社にあるものだと言われ、重要文化財に指定されています。
ところで、佐理卿がこの神額の筆を執った場所については、諸説粉々としており、いずれもはっきりと断定することは出来ませんが、一説には、越智郡大西町九王の品部川裾近傍ではないかと言われ、ここから流したものが、神の加護によって大三島町宮浦の海岸に流れつき、大山祗神社の神官によって取り上げられたそうです。この伝説を裏付けるような神事の神舟が一旦止んでいたのが、最近復興し、今治市神宮の野間神社の春の大祭の催し物となっています。珍しい神事なので次に紹介しておきます。
この野間神社の宮出しは、神輿が出る前に大名行列の奴、獅子舞、櫓太鼓等とともに、異色の神舟という出し物が登場しました。この神舟は、舳先から艫まで四間余りもあり、御簾が下り、高欄がかかった豪華な屋形舟で、中央には列の『日本鎮守大山積大明神』という神額が置かれ、神額をはさんで等身大の白髪の翁である三島大明神と、筆を手にした佐理卿が向かいあって坐っています。舟の下に波を型どった垂れ幕があり、氏子である大西町紺原の生年が上手に操りながら、石段をゆっくり降りていくようになっています。舟歌にあわせて進んで行く様子は、実際に舟が波間に漂っているようで、絵巻物さながらの壮観な感じを抱かせます。この神事は今後末長く続けてほしいものです。

所在地:今治市大西町星浦

50.弘法大師と御加持水

玉川町の四国八十八か所五十八番札所仙遊寺(真言宗)のある作札山の参道に、弘法大師の御加持水というのがあります。ここは、その昔、弘法大師がこのお寺を建立のため各地を巡り歩き修行されていた途中、ひどくのどのかわきをおぼえられたのに、あいにく水がなかったので、錫杖(お坊さんの持ち歩くつえ)でもって清水を掘り出された所だといわれています。-別に、このあたりの里人が日照りと疫病(悪性の伝染病)に悩んでいたので、霊泉を教えたともいわれています。-大師がこの水を加持して病人に施されると、たちまち病気が治ったそうです。この水は四季を通じてかれることがなく、清らかな水が、常に岩の間からこんこんわき出ており、お遍路さんののどをうるおし、疲れをいやす憩いの場とされています。。

また、作礼山山頂にある仙遊寺で、夏の日照りで、水がかれた時には、この御加持水が利用されているそうです。また、郷土の学者として有名な半井梧庵(1813~1889)の『愛媛面影』に「日吉村の山際にあり、石の井筒有て、その中より、霊泉湧出て夏冬涸る事なし、尤茶を烹によろし……」と書かれている、茶人に親しまれている茶堂の井筒(今治市山方町一丁目にあり、山方の僧都の井戸ともいわれています。)も、この弘法大師の法力によって掘り出されたものだという古老のいい伝えがあります。
その他、茶堂の井筒と並ぶ井戸で有名な、東予市楠の踏切の近くの道ばたにある臼井の井戸、菊間町種葉山(旧亀岡村)の青木地蔵(後述の「弘法大師と青木のお地蔵さん」に詳しい。)のはたにある井戸なども、弘法大師が四国霊場開創の途中で掘られたという伝説があります。このような弘法大師の法力によりわき出した清水、井戸、泉、池などは、全国いたる所にあります。とりわけ、有名なものを弘法大師に結びつけている例は多いようです。
また、水については、身なりの卑しい僧侶に扮装した弘法大師が、水を与えてくれるように頼んだところ、遠くから運んできて清水を惜し気もなく与えたので、その礼に清らかな水の出る井戸を掘り当てられたが、逆に、惜しんで与えなかったために、さび気のある水にしてしまったという話も、全国的によく見られるものです。このあたりでも、松木付近(旧富田村)で、あるお百姓がさり気なく断ったがために、そのあたりの水を、金気水にしてしまったという話が残っています

所在地:今治市玉川町別所

51.弘法大師と青木のお地蔵さん

菊間町の種に円福寺の境外寺として知られる青木地蔵堂があります。昔、弘法大師が四国巡行の途中、この地に立ち寄られ、村人に有難い仏の道についてご説教されるとともに御手ずから地蔵菩薩像を納められました。後の人が「青木地蔵」(青木のお地蔵さん)と呼ぶようになったのはその際、記念に青木を植えられたからだと言われています。昔ほどではないにしても、今でも青々とした木々が茂っています。また、この地蔵堂の近くに「青木水」と呼ばれる弘法大師の御加持水があります。この青木水についても次のようないわれが残っています。丁度弘法大師がお立寄りになった頃、このあたり一帯は大日照りで、井戸水もかれてしまい人々は飲み水の不足で困っていました。このことを知った弘法大師は、ご祈とうをされ災難を除き願いをかなえられるように杖で

 

もってこの地をたたかれ、村人に掘ってみるように教えられました。村人が指さすところを少し掘ると泉のような清水がこんこんとわき出ました。それ以来、どんな日照りの時でも水がかれることなく四季を通じてきれいな水が出るので、人々に大変喜ばれています。弘法大師が、この水を加持して病人に施されると病気がたちまち治ったそうで、今でも、この青木のお地蔵さんにお参りして御加持水を飲むと病気がよく治ると言われています。特に、下の病には霊験あらたかと言われ、「腰・下のお地蔵さん」とも呼ばれます。近郷近在の人は、いうに及ばず、松山あたりの遠隔の地からも参詣する人があります。また、御加持水を瓶に入れて持って帰る人もいます。とりわけ、足にはご利益があると言われ願いがかなえられ治ったお礼として、ぞうり、松葉杖・普通の杖・とれたギプス等をたくさん献納しています。毎月二十四日は縁日とされ参詣者でにぎわいます。この御加持水は夏は冷たい水としてのどをうるおすのに最適とされ、冬はあたたかい水として重宝がられます。また、側にある弘法大師の石像に自分のなおしてもらいたい箇所に酌で水をかけるとご利益があるといわれています。

所在地:今治市菊間町種

52.弘法大師と食わずの芋

通りがかりのみずぼらしい旅僧の姿に身をやつにした弘法大師を親切にしたか冷遇したかによって、恩恵を受けたり災いを受けたりという伝説は、水のほかにもさまざまのものが各地に残っています。年に二度も三度もなるような栗、柿、あんず、種のない柿、一たん煮たり焼いたりした栗の実から芽を出したという栗の木、あくだしのいらないあわび等にしてくれたのは前者の例であり、渋いなつめや、桃の花は咲くが実はやね桃ばかり、苦い大根、石のような芋等に変えてしまったというのは後者の例です。このあたりでも後者の例として、馬越付近にこんな例が残っています。あるお百姓が、畑で大きな芋(里芋)を掘っているのを見て、一老僧に扮した弘法大師が「一つ分けてください。」と頼んだところ、「お前らのような乞食坊主が食べられるような芋では

ない。」とうるさげに断ったそうです。お百姓が芋をとって帰って煮たところ、いくら煮ても、どの芋も全く石のように堅くて食べることが出来なかったとか、里人は、この芋を「食わずの芋」とか、「石芋」と名付けました。この話は、天然の不思議を弘法大師のしわざのようにいい伝えたものだと思います。食わずの芋というのは、葉は里芋のようで、根についた芋は堅くて食べることが出来ないそうで、全国的にもあちこちで見られます。

所在地:今治市馬越

53.弘法大師と破られた蚊袋

別宮の砂川町に蚊丸という小さな地名が残っています。弘法大師が四国に来られ、山野に泊まられた時に、蚊を封じられ、大きな袋に入れてこのあたりを通っていたところ、蚊袋が破れた場所だといわれています。昔はこのあたりは、昼でも木がおおおい茂った森になっていたり、蘆の生えた沼地になっていて、すごく沢山の蚊がぶんぶん音をたてて飛んでいたそうです。この蚊丸の近くにある南光坊(四国八十八か所五十五番札所、真言宗、別宮町)のあたりも、町が美化されるまでは、周囲に森と田んぼをひかえ、蚊がものすごく多かったそうで、和尚さんが本堂でお経を読んでいても、のどや鼻によくとびこむような始末だったそうです。
弘法大師は蚊袋にもう一度蚊を封じ込める予定でしたが、加持祈とうのため忙しく駆け巡っていたので、そのままになったとか、また、誰か考えのよこしまな人がいて、わざと破れたままにしたとか、いろいろ言われています。
弘法大師の伝説は、日本全国似たようなものがいくらも残っており、果たしてこんなに全国を歩きまわることが出来たか、まともに考えるとこじつけめいたところがあり、理屈にあわぬと一笑に付すような点が多いかと思います。しかし、伝説は史実からはっきり区別されるもので、むしろ我々は、我々の先祖が事実だと信じこんできた素ぼくな思想感情をくみとるところに、意義があるのではないかと思います。弘法大師の伝説は、この地方にもここで述べたもののほかにも、まだ沢山あるかと思いますが、今回は一応このあたりでとどめることにします。

所在地:今治市別宮町

54.法力を使った頓魚上人

昔、延喜の乗禅寺(真言宗)に頓魚上人というお坊さんがいました。上人はいろいろ変わったことをして、人々を驚かせました。上人が一人でお経を読むのに、いつも七人のお坊さんが読んでいるように聞こえたので、人々は『七舌上人』と言ったそうです。先にもお話したように、後醍醐天皇がご病気になられ、延喜の観音さんをご祈とうされたことがありましたが、この時、後醍醐天皇のご病気がすっかり治るように、宮中にお招きを受けたことがありました。宮中まで来て門へはいろうとした時、警備に当たっている人たちに、身分の低い田舎僧に見られ、中へ入ることをこばまれました。上人が、事の次第を申し述べると、警備の人たちが、「それほどの法力があるのなら、一度ここで何かその証拠を示してほしい。」と言いました。上人は扇子を出して、はたに咲いていた梅の花をあおぎました。すると、たちまちにして、梅の花は地上に散ってしまいました。まわりの人々がびっくりしていると、今度は地上に散っていた梅の花びらが、ひらひらと舞い上がってもとのように枝につきました。驚き入った警備人は、そのことを天皇に申し上げました。上人はお陰で宮中に迎え入れてもらい、てい重なとりなしを受け、無事病気平癒の祈とうが出来たということです。

所在地:今治市延喜

55.清水の舞台から飛び降りた隆賢和尚

江戸時代後期に、延喜の乗禅寺(真言宗)に隆賢という名僧がいました。この隆賢和尚は、ずいぶん風変わりなお坊さんで、生い立ちについていろいろおもしろい話が残っているので紹介してみましょう。樋口村(現在の波方町)のあるお百姓の家にいても百姓仕事も余りせず、いたずらばかりするので、自分の家から四キロほどの所にある乗禅寺へ小僧として預けられました。しかし、いたずらは一向にやまず、その上記憶力が鈍く、居眠りばかりしていて、お経を習ってもすぐに忘れてしまう始末、思いあまった和尚さんから破門されました。隆賢さんは、家に帰ろうにも帰られず、志を立てて京都へ行きました。修行のため、いろいろなお寺へも入りましたが、頭の悪さはどうしようもなく、ことごとく破門されました。

落胆して思いあまった隆賢さんは、ある日、西国三十三か所観音の第十六番札所で、おとぎばなしに出てくる一寸法師が、お姫様のお供をしてお参りしたといわれる有名な清水寺の舞台へ上がりました。隆賢さんは、静かに目を閉じて、清水の観音さんに心願をかけました。「自分は志を立てて故郷を出て来ました。しかし、情けないことにお経一巻もよう暗誦出来ません。これでは頭をそったかいもありません。また、男児がおめおめと今更故郷へ帰るわけにもいきません。観音様、もし仏の道に使える者として役立つ者でしたら、この愚鈍なわが身を転じさせてください。生きていても何のお役にも立ちえない者でしたら、即座にこの命を断たせてください。」と言って、舞台から後ろ向きになって飛び降りました。大方の人が死んでしまうのに、隆賢さんは仏さんの加護があったと見えて、腰の骨を強く打って気絶はしましたが、間もなく息をふきかえしました。ちょうど、そこを通りかかったお坊さんに介抱され、丹波(今の近畿地方の一国、大部分は京都府、一部は兵庫県が入ります。)の山奥の、とあるお寺にひきとられました。それからは一度死んだ気持で、すべてのことに精魂を打ちこみました。苦行すること六年、観心術という人の心を見ぬく術を心得ました。久しぶりに故郷の常禅寺へ帰った時には、お寺は火事で全焼して、あたり一面焼け野原になっていました。隆賢さんは、お寺の中興のために努力を惜しみませんでした。特に荒行はすごく、手のひらの上に油を注ぐ、いわゆる手燈明を捧げて、本尊の前を行き来しながら観音経を読経しました。とりわけ、参詣人の願いごとを当てることは百発百中でした。参詣人にお説教したり、お経を読んで聞かせましたが、人々の心は自然に隆賢和尚にひきつけられました。そのため、信者もみるみるうちに増え、お寺の再建はおろか、前にもまして繁栄したということです。
この隆賢和尚の物語は、生死を越えて修行を積んだ努力が、愚鈍な人間を偉人にまでしあげたという話で、厳密にいえば史実に近く伝説の体裁からはずれていると思われる面もありますが、変ったためになる話ですので取り上げてみました。隆賢和尚については、詳しい履歴ははっきりしておらず、この物語は伝統的伝記というべきかと思います。

所在地:今治市延喜

56.雨ごいに成功した光範上人

玉川町の光林寺(真言宗、高野山派)に光範というとても偉いお坊さんがいました。後で、紹介する学信和尚、東吟和尚とともに今治三僧の一人として名高い人です。光範上人は別名俊良房ともいい、吉海町本庄の出身といわれますが、一説には、鳥生の生まれで有名な槍の名人田坂槍之助の子孫ともいわれます。上人は、

書道や漢詩にすぐれるなど博学であるとともに、村人の面倒を親身になってよく見る徳の高い人でもあったので、人々から大変慕われました。
元祿六年(1693)夏のことです。このあたり一帯に何十日も日照が続きました。青田も白くなりかけ、草木も枯れかける寸前にまでなりました。この時、上人は、村人とともに奈良原山上(1042メートル)に登り、七日間おこもりをして、雨ごいをしました。雨ごいに当たって、水天宮の像を安置し、高く積み上げたまきの上にすわり、「満願までに雨を降らしてください。満願の日が来ても雨が降らない時は、私を焼き殺してください。」とお願いしたそうです。しかし、最後の満願の日がやってきても、一向に雨が降りそうになく、空には一点の曇りもありません。そんな中で、祈とうしていた上人は、みんなに向かって「雨が降ることになったぞ。みんな家に帰りなさい。早く帰らぬと祓川(奈良原山のふもとの川)が渡れなくなるぞ。」と言いました。村人は、こんなよい天気にまさかと思いましたが、上人の言われることなので、急いで山を下り、家に帰りました。ところが、村人たちが祓川を越えたあたりで、一天にわかに曇り、川の水があふれるほど大雨が降り出しました。おかげで枯れかかっていた稲田も、草も木も元気をとりもどしました。この年の秋は、大変な豊作でにぎわいました。この霊験により、今治藩主駿河守松平定陳から感謝状を賜りました。この時の「雨乞願書草」と題する雨ごい請願文は、今も光林寺に残っています。上人は、この年のほか、前後三回雨ごい祈願を行っていますが、いずれも成果を収めているということです。
なお、上人は、元祿十三年(1700)に光林寺備付けの大般若経六百巻を補修する大事業をやっています。光林寺境内に『法印権大僧都光範林洞上人』と書かれたお墓があり、最近二百五十回忌が行われました。道後の柳原一男氏は、上人の子孫に当たるそうです。

所在地:今治市玉川町畑寺

57.随転和尚の入定

享保十七年(1732)に浮塵子の大群がやってきて、このあたり一帯が大飢饉になったことがありました。村民の悲惨の情を見て、浄寂寺中興の開祖と言われた随転和尚は、願心をたて、彼岸入りの一日前の旧暦の三月一日に定に入られました。丁度この頃は、野も山も花盛りであったようです。この時、随転和尚は七十

九歳であり、お釈迦様が定に入ったのが八十歳であったので、一年遠慮して先に入ったと言うことになります。
まず、彼は、お寺の裏の山へ穴を掘って、天井をこしらえて、その上に土をかぶせ、節を抜いた竹筒で空気穴をつくって、中で念仏を唱えながら往生を遂げました。その時、七日七夜、随転和尚が読経しながら、ちりんちりんと鳴らす鈴の微音が響いたそうです。伝え聞いた者が、近郷近在は言うに及ばず、遠方からもやってきましたが、彼の穴の前に手を合わせて合掌する長い行列が絶え間なく続いたとか、この時に投げた一文銭で穴のあたり一円は足を踏み入れる余地もなかったということです。
辞世の句として

生まれては 死ねる日までの 命ぞと
思いぬる夜の 夢はさめりけり

と歌っています。
今も境内に、随転和尚入定の松と言われる枝葉を大きくのばした美しい松が残っています。これは、随転和尚入定の時、等身の松を植えたものだそうです。

所在地:今治市五十嵐

58.風変わりな東吟和尚

昔、山方町の海禅寺(臨済宗)に東吟和尚と呼ぶとても風変わりな、そして賢い坊さんがいました。毎朝、明け方に庭に出て、東の空に向かって声高らかに笑ったそうですが、なぜそんなことをしたのかは、だれもわかりません。ただこの東吟という名前は、暁に向かって吟ずるというところからきているのではないかと思います。出生地ははっきりしませんが、海禅寺の七世壱零和尚を師として修養し、仏学に通じ、先に述べたように今治地方三僧の一人に挙げられている名僧です。ある時、大般若六百巻の釈義(文章・語句などの意義を説きあかすこと)を頼まれましたが、わずかに三か所だけ解釈しかねるところがあったに過ぎなかったというのですから、その頭脳明せきぶりがうかがえます。また、常に悟りの境地にあり、俗世間のわずらわしさを超越し、無欲を

尊び、自然の意のままに生活していました。お寺で仏に仕えるほかは、黒衣をまとい、袋を胸に掛け、行脚僧のかっこうで、村々を托鉢してまわりました。
ある春の日でした。村内のお百姓が麦を干している所へ托鉢に行きました。急な用事が出来たお百姓は、麦をそのままにして近所へ行かねばならぬようになったので、ちょうど居合わせた東吟和尚に「鶏に麦を食べられぬようにしばらく番をしてくださいな。」と頼みました。東吟和尚は「心得ました。」と気軽に受け合いました。用事をすませたお百姓が帰ってみると乞食風の男が干している麦を盗んで袋に入れているのです。お百姓は「せっかく番を頼んだのに頼みがいのないだらしない坊主だ。」とさんざんののしりました。東吟和尚は、「わしは鶏の番は頼まれたが、人の番を頼まれた覚えがないぞ。」とそしらぬ風をして帰ったということです。
ところで、托鉢をしてもらった米や麦ですが、これらは貧しい人施しをする以外は、後日また困った時にもらうからとすべて預けてかえりみませんでした。そのため東吟和尚が亡くなって後に、村人たちは高徳を慕い、預った米や麦は、残らず海禅寺へ納めました。その量が余りにもおびただしかったので、それでもって八世久山和尚の時に観音堂と山門を建立したということです。これらの徳行奇特な話は「今治夜話」「続今治夜話」に詳しく出ています。
東吟和尚は、安永七年(1778)の七月二十六日にこの世を去りましたが、遺徳をしのぶため、西月東吟堂というお堂が建てられ、今もてい重にお祭りされています。また八月二十六日(従前は旧暦七月二十六日)に縁日が開かれ、『東吟さん』の名で親しまれ、露店が出て、盆踊りもあったりしてにぎわいます。

所在地:今治市山方町

59.気骨の人実雄上人

明治・大正のころに佐伯実雄という偉いお坊さんがいました。実雄上人は、嘉永元年(1848)に今の上浦町(大三島)の瀬戸崎の庄屋近藤戸平の二男として生まれました。幼少の頃、家庭内の不幸続きに世をはかなみ、東村の真光寺(真言宗)の廉雄上人の弟子として仏門の道に入りました。以来この真光寺のほか、歓喜寺(町谷真言宗)、仏乗寺、(伊予市真言宗)の住職として寺の復興に尽力しました。特に建築には大変な手腕があり、大伽藍、本堂、釣鐘堂、庫裏等をあちこちの寺で建立するなど多くの功績を残しました。ところが、もともと無欲で名誉心のない人で、これらの建築物の梁などに名前を書いて残してはと人が勧めても、そんなものは書く必要がないといって断ったとか。何につけても自分の功績を残すことを極端にきらった人で、記録を残さ

ぬ実雄上人として名が通っています。また、葬儀や法事の行き帰りに、人が人力車を勧めても、一切乗らず「わしにはりっぱな足があるのに何を言っておるか。」と反対し気骨のあるところを示したそうです。大正十二年(1923)五月、遍路姿に身をやつし、小豆島の八十八か所を銘とともに巡拝しましたが、結願の後、帰途の際、高松で急病にかかり亡くなりました。時に七十六歳でした。
実雄上人は、淡白で気骨のある反面、温厚で包容力もあったので、人々の信頼も厚く、寺の再興の費用や寄付などは、檀家はいうに及ばず、檀家でない人まで積極的に協力しています。
先にも述べたように、実雄上人は記録を残すことを極端にきらったので、記録らしいものがなく、実雄上人のことについても横顔がほとんど忘れられようとしており、一部の古老が、親やお年寄りから聞いたという程度のことしかわかりません。ここで述べたのは、実雄上人の甥に当たる拝志の馬越定氏や喜田村の故小沢喜八郎から聴取したものです。歓喜寺に『当山中興実雄上人頌徳碑』が建てられ、わずかに実雄上人の偉大さを伝えております。

所在地:今治市町谷

60.消えた鴨と自覚法師

昔、今治の阿方に大変酒と狩りの好きな、そして非常に力が強くかっぷくのよいお百姓がいました。このお百姓は、毎晩獲物をさなかに酒を飲んでおりました。
ある日、いつもと変りなく、網と大きなかごを持って、阿方の奥の大池という池へ行きました。草むらの中に隠れて、じっと鴨がやって来るのをうかがっていると、鴨が群になってお百姓のそばへやって来ました。(一説には糸に鳥もちをつけて、水面にはってとったともいわれます。)もう大分とれたわいと、かごの中を見たところ、あれほど沢山とったはずの鴨が一匹もおりません。それからは、一匹とったごとにかごの中を確かめましたが、いくら入れてもとっている間に入れたはずの鴨がいません。お百姓は何やら気色が悪くなってきたので、いい加減で家へ帰りました。

夜、寝床についたものの、昼間の鴨の幻影が目の前にちらついてきて熟睡できません。「これは、きっとわしがよく殺生するから、仏の道に入れということじゃわい。」と考えました。翌日から狩りと酒をぷっつりやめました。そして髪を切って菅笠をかぶり、脚絆甲掛に草鞋をはき、四国八十八か所、西国三十三か所をはじめ、全国の霊場の巡拝の旅に出ました。長い年月をかけて村に帰ると、さっそく阿方の大東の笠坊という所に、庵を建てて仏の道に入りました。また、自己が主体になって迷妄(物事の道理を知らなかったために持つまちがった考え)を断じ、正法(正しい教えである仏法)を覚えたいという意味から、自ら自覚と名付けました。この庵の近くに元文二年(1737)経文を地中に埋め『日本廻国供養』の碑を建てるとともに、宝暦二年(1752)には、四国八十八か所を二十一回巡礼した記念のため、平素崇拝している延命寺(四国八十八か所五十四番札所)の門前に石碑を建てました。─現在仁王門の前にあり、『南無大師遍照金剛』と書かれています。─村人からも自覚さんとか、自覚法師と呼ばれ、非常に尊敬されながら齡をまっとうしました。(宝暦四年-1754-逝去)阿方中西の小沢虎三郎氏(養子)は、この自覚法師から九代目の子孫に当たるそうです。

所在地:今治市阿方

61.あめ買い女と学信和尚

江戸時代の中ごろのことです。ある寒い夜ふけに、旭町のあめ屋の惣兵衛さん方へ、白い着物を着た青ざめた女の人がすうーと音もなく入って来ました。そして一文銭を入れた茶わんを突き出し、あめをさすので、惣兵衛さんは、おそるおそるあめを入れて渡してやりました。女は、また静かに消えるように出て行きました。それから、毎晩同じころ、決まって現われ、一文銭であめを求めては消えて行きました。このようなことが六晩続きました。七日目の晩は、いつものとおり、茶わんをさし出しましたが、一文銭が入っておりません。もじもじしながら、何か言いたそうな様子、かわいそうに思って惣兵衛さんが、あめを少し余計に入れてやると、しきみの葉を一枚置いて立ち去りました。女は蒼社川

を渡り、北鳥生町三丁目の明積寺(真言宗)─本町四丁目の円浄寺(浄土宗)だという説もあります。─の境内に入るとポッと消えました。じっと耳をすますと、まだ土の柔らかい新しい墓の下から声がもれてきます。あわてて和尚さんを起こし、近くのお百姓を集め、墓を掘り起こしてみると、生まれて間もない男の赤ん坊が、死んで冷たくなった若い母親のかたわらで、火がついたように泣きながら、惣兵衛さんんお作ったあめを無心にしゃぶっていました。和尚さんが調べてみると、ちょうど一週間前、赤ん坊が生まれるまぎわに死んでいることがわかりました。棺おけに入れてあった六文銭の袋はからっぽになっていました。和尚さんは、この赤ん坊を天から授けてくださった子供だと、乳母をつけて大事に育てあげました。この赤ん坊は、後に名僧として、また学問を始め、書道や絵画にもすぐれた博学多識の人として、その名を知られた学信和尚(1722~1789)だということです。参考までに、次に学信和尚について簡単にふれておきます。
俗名を市之助といいましたが、別に正蓮社行誉敬阿、または無量とも呼びました。幼少より成人に至まで、本町の真誉和尚について仏道をきわめ、二十歳の時に江戸の増上寺で浄土宗の教学を会得、以後、越智郡の岩城島の浄光寺(浄土宗)、京都の鹿が谷の法然院(浄土宗)、広島の宮島の光明院(浄土宗)、松山の長建寺(浄土宗)、大林寺(浄土宗)等の有名なお寺の住職をつとめました。世に高僧の誉れ高く、徳行奇特な話(道徳にかなった正しい行いや普通一般の人々には行いがたい事をする様子についての話)は枚挙にいとまがないくらいですが、その中から二つほど例を挙げてみます。学信和尚は、すばらしい体格の持ち主であるとともに、勇猛果敢なしんの強い人物だったということで、本町の円浄寺にいた時分には、三回にわたって昼夜断食して、玉川町桂の釈迦瑞像に祈願をこめたという記録が残っています。また松山の大林寺の住職に、一士人が罪を問われて獄に下った際、情状酌量の余地ありと、藩主定国にしばしば助命を請いましたが、僧徒が政道に預かるべきではないということで、意見が入れられず、そのために、住職のかいなしと、ぷいと寺を飛び出して、二度と同寺に帰って来なかったという話が残っています。それから、同じ大林寺にいた時分に大かんばつが続いて農民が苦しんだことがありましたが、そのたびに彼は、昼夜を分たず、寝食を忘れて無量寿経を読誦し、松山領分に限り慈雨を降らしたという口碑が残っています。
このように有名な学信和尚ですが、祖先や誕生については諸説紛々としており、全く伝説の域を出ません。そこで次に、今少し学信和尚の誕生について、あれこれ述べてみましょう。
学信和尚については、伴蒿蹊(1733~1806)、学信和尚より誕生は十一年、歿年が十七年遅れているだけでほとんど同時代の人です。歌人、国学者として有名で、歌論書、随筆、伝記研究など著書も多くあります。)の『続近世畸人伝』巻三─今治編年史料第三十三巻に収録、今治市立図書館蔵─に「学信和尚は伊予国の人なるが、其の生るるはじめいとあやし、今治の浄土宗の寺に、新亡の婦人葬りしが、其の夜、赤子の声頻りに聞えければ、住僧あやしみて、声をしるべに尋ねしに、彼の新亡の墓なりしかば、いそぎ堀り穿ためして棺をひらき見るに、男児生まれ出でてありけり。住僧喜び、こは我が授かり得し子なりとて乳母を付けて養ひしに、よく生ひたちて、此の和尚となりたり……」とあります。先に述べたのと、話が多少違っているところもありますが、臨月で亡くなった母親の墓の中で、赤ん坊が出産、泣き声をあげていたので、掘り起こして育てあげたという筋は、全く同じです。『続近世畸人伝』に学信和尚の誕生の地が、浄土宗の寺とありますが、これは、彼が若い時分に円浄寺で育ち、修養したからこのようにいうので、実際は、北鳥生町三丁目の明積寺と見るむきが多いようです。
ところで、赤ん坊とともに葬られた母親が、愛児を育てるために、毎夜あめ屋に通ったという類似の伝説や民話は、全国的に多いようです。愛媛県下でも松山市や西宇和郡等に似たような話が残っているほか、長崎県の光源寺(真宗本願寺派、長崎市伊良林一の一二七番地)には、『産女幽霊木像』なるものが現存しています。また、静岡県の榛原群金谷町(東海道沿いの町、東海道五十三次の第二十五番宿駅として有名です。)では、妊婦が山賊に襲われ、通りがかりの里人が赤ん坊を水あめで育てたという伝説にちなんで、今も子育てあめなるものが売られています。昔の人は、生まれかわりを信じており、なかでも胎児や赤ん坊で死んだものは、もっとも生まれかわってきやすいものと考えていたようです。したがって、この胎児や、赤ん坊の霊力が復興するという信仰が、このようなあめ買い幽霊の話につながったものといえましょう。また、この種の伝説の主人公のほとんどが、高僧とか、知識人などの有名人になっているのは、傑出した人物に対する庶民の要求やあこがれの結果生まれた誇張にもとづくものと考えられるのではないでしょうか。学信和尚の遺弟にあたる慧満(厳島光明院の住職として有名です。)等が発行した『学信和尚行状記』に「師の母妊娠して臨月の頃、其の祖先の墓に詣でられしに、其の墓所にて忽ち出生せられしなり。それをかく言い伝へり。」と述べています。いかにも話の本筋のように、上手に実証化しています。しかい、このように理屈でわりきってしまうと、昔の人の素ぼくな考え方、わけても、傑出した人物への一種の神秘化したがる気持を、まっ殺してしまうことになり、本来の伝説の味をそこねてしまうことになります。むしろ、奇跡を信じた昔の人の心根を大切にしてこそ、この伝説は生きてくるのではないかと思います。
この学信和尚の誕生にまつわる「あめ買い幽霊」を紹介した『続近世畸人伝』が、著名な書物であるだけに、全国的にもかなり知られているものと思われます。なお、問題のあめ買い幽霊の墓については、はっきりとした証拠はありませんが、一般には、明積寺の本堂の前のあたりだという説が多いようです。また旭町四丁目の河上義孝商店は、あめ屋の主人惣兵衛さんの子孫に当たるといわれ、今も縁起あめを売っています。

所在地:今治市北鳥生町

62.河上安固と蒼社川

江戸時代の半ばころまで、蒼社川は、豪雨にあうと、しばしば堤防が決壊し、田畑や家屋が流失したり、時には尊い生命さえ奪われました。人々は、お天道さんの仕わざで、どうにもならぬ天災だと考え、この蒼社川を「人取川」と言って大変恐れました。そのため、江戸時代の代々の今治藩主は、この蒼社川の治水のため

に頭を悩まし、何度も河川工事を行いました。この治水に真正面から取組み、よい成果を収めた人に、今治藩主第五代松平郷に仕え、土工に手腕のあった河上安固(勘定目付をつとめました。)という人がいました。当時は、蒼社川は今と違って、玉川町から日高の片山、馬越を経て、浅川方面に大きく曲がって海に注いでいたといわれます。(一説には、元禄時代にはすでに、片山、馬越は新田開発が行われ、川が流れていた痕跡はないとして、城の西から北への屈曲説を否定する向きもあります。いずれにしても、川が現在のような直流ではなかったことは事実のようです。)また、現在よりも川幅が広く川床が浅かったようでした。そのため、梅雨など豪雨にあうと、すぐに堤防が破壊され、はん濫のうき目にあいました。とりわけ、清水村、立花村はしばしば水害に見舞われました。
安固は、鳥生に住居を構えていましたが、毎日高橋の権現山に登り、蒼社川を見下ろしては、何とかよい方法はないものかといろいろ考えました。また、夜も出かけては水音に耳を傾けました。このようにしていろいろ水勢を研究した結果、曲がった川筋を真っ直ぐに付け変えればよいという結論に達しました。安固は、さっそく藩主に願い出ましたが、事が余りにも大きすぎるとして、なかなか許可をえることが出来ませんでした。しかし、安固の身命を賭した情熱に藩主も心を動かされ、すべての仕事を任されました。安固は、まず川筋に当たる農民を動員して支流を廃し、川筋を直流にしました。当所は、農民も安固のやり方を非難しましたが、そのうちに彼の熱意におされ、進んで協力するようになりました。この付け変え工事は、現在のように土木工事の進んでいる時代と違うので、相当な労力と日数を要する難工事であったようで、宝暦元年(1751)に着工し、十三年目の宝暦十三年(1763)に完成したといわれています。なお、付け変えだけでは雨が多いと川の水があふれ出ることがあるので、堤防を築くとともに、宗門堀と称する川ざらえ作業を行いました。この宗門堀は、毎年春に三日間、十五歳から六十歳までの男子を選んで当たらせたそうです。このようにして、徹底的に治水に当たったため、それまでのように再々大きな洪水に見舞われることもなくなり、人々も安心して生活が出来るようになりました。蒼社川のほか、呑吐桶及び鳥生高下浜の唐桶も彼が手がけたもので、土木方面に並々ならぬ才能があったことを知ることが出来ます。
安固の墓は、現在鳥生公民館の北側の墓地にあります。河上家は、後に古土居と改姓したので、墓石には『古土居家先祖累代墓』と書かれています。なお、墓石の左側に、遺徳をたたえるため、今治市教育委員会、鳥生史談会、鳥生老人会『史跡河上安固之墓』と書いた木碑がまた右側には、『河上安固墓所』と言う石碑がそれぞれ建っています。

所在地:今治市北鳥生町

63.治衛門と今治城

今治城(別に吹揚城、美須賀城ともいいます。)は、慶長五年(1600)関ヶ原の戦功により、宇和島七万石より二十万三千石に加増された天下の名将藤堂高虎が築いたものです。この当時の城は、丘陵を利用して築いたものが普通でしたが、今治城は、台湾にオランダ人が築いたゼーランジャ(開国城)用式を取り入

れたものともいわれ、海岸近くに平城を造り、三重の堀をめぐらし、海水を導入した当時としては最新式の珍しいものといわれています。本丸の天守閣についても、五層の立派なものが健造されていたようです。(藤堂家の記録をものに編集された『宗国史』と言う書物に書かれています。)─慶長七年(1602)六月から、同九年(1604)九月まで、二年三か月とわりと早い年月で築城されています。─
ところで、この今治城が出来上がるまでには、民衆の陰の力があったことはいうまでもありません。なかでも陰の功労者として石屋、小田治衛門等石工左官の人たち十二名をあげることが出来ましょう。治衛門は、大阪城の築城の際に人夫として働き、石組み法を身につけ、後に西条の禎瑞の干拓にも大いに貢献したといわれています。その功績を認められ、今治城を築く時に、石組みを命ぜられました。この時代には、抜け穴や城の細かい構えを敵に知らせないように極秘にしてもらさず、城主と一部の幹部だけの秘密にしておりました。この時にも、治衛門は、十二人の石工左官の頭としてその相談を受け、抜け道(一説には近見方面にこしらえたといわれています。)の工事に当たりました。それで、城が完成すると、人権無視もはなはだしく、口封じのため十二名の者たちが処刑されることになりました。十名の者は、即刻捕えられて処刑されました。事前にこのことを知った治衛門ともう一人の某の二人は、竹のいかだを作って、夜ひそかに蒼社川尻から流し、やっとのことで大島にたどりつき、危うくその難を免れました。その後、治衛門は大島の宮窪町の余所国の念仏山に隠れて、十名の冥福を祈りながら静かに余生を過ごしたそうです。余所国に鐘撞堂という地名があり、彼の手によって造られたといわれるすばらしい築き方をした石垣が残っており、彼の住居跡ではなかろうかといわれています。現在、余所国に御新田踊りという踊りが残っていますが、治衛門が広めたものかどうかはっきりしたことはいえませんが、一説には先の十人の犠牲者の霊を弔うためのものではないかという声もあります。
なお、処刑された十人塚についてはいろいろいわれていますが、現在のところはっきりとした所在がつかめていません。今治市南日吉町三丁目の小田通俊氏は、治衛門の十七代目の直系に当たるといわれています。また、余所国の大島石材工業株式会社の小田満氏も子孫に当たるそうです。

所在地:今治市通町

64.麦田に散った五人主様

清水の松尾(現在は五十嵐になります。)の庄屋に、近藤八右衛門という人がいました。正義感が強く、村民のためによく尽くしたので、村人から俗に府中の佐倉宗五郎といわれ、だれからも崇拝されていました。
寛文年間(1661~1672、詳しくは寛文元年─1661─

と寛文七年─1667─になります。)全国的に飢饉に見まわれました。今治藩でも餓死こそなかったようですが、不作で農民は苦しみました。今治の初代藩主久松定房の時でしたが、藩主が参勤交代で江戸に在住中、国もとの某家老が代わって政治を行っていましたが、重い年貢をかける等悪政の限りをし、農民を痛めつけました。八右衛門は家老に年貢の軽減を何度も頼みましたが、一向聞き入れてくれません。非常ないきどおりを感じた八右衛門は、藩主に訴えることを決心し、他村の庄屋(法界寺と郷の庄屋ではないかといわれています。)と相談しましたが、後難を恐れた他村の庄屋は途中から彼のもとから離れてしまいました。某家老の悪政は募るばかりであったので、ついに八衛門は単身で命をかけて事に当たることにしました。寛文七年(1667)十一月、遠路をいとわず江戸に上り、参勤中の藩主に直訴し、訴状二通を差出しました。藩主は、八衛門の労をねぎらい、頭巾と杖を与え、税を軽くすることと善政を敷くことを約束しました。その後、農民は以前のように安心して作業に精進することができるようになりました。そして、八衛門の行為に村人は心から感謝しました。しかし、悪家老は八衛門の直訴を恨み、復しゅうの機会をねらっていました。ある日、八衛門が家族四人と五十嵐の額が内で麦まき中に大勢の武士が早馬で駆けつけ、「無礼なやつめ」と五人の者を即座に、その場で切り殺してしまいました。時に寛文九年(1669)十月十日でした。藩主から余(時分)の代わりにはだ身離さず身につけておくようにいわれていた頭巾と杖を、家に置いているところをねらわれたといわれています。村人の悲しみはひととおりでなく、ひそかに遺体を浄寂寺裏の法華寺山に葬り、五人主様(五人主霊ともいいます。)として手厚く祭りました。今もその墓は残っていますが、罪人扱いにされたのをはばかってか、書かれた文字が摩滅していて不鮮明です。また、後に浄寂寺境内に、五人主堂を建てて八衛門とその家族をお祭りしました。なお、その時乳飲み子が一人いましたが、幸運なことに家で子守をしていた乳母の実家の町谷(旧富田村)にひそかにのがれて、その難を免れました。後に、その難を恐れて、その名も羽倉と改めましたが、八衛門の血を引く、その子孫が今もずっと続いています。(現在、末孫といわれる町谷の羽倉勝正氏宅に、五人主様の位牌が祭られています。)
なお、この惨事があって以来、松尾村の庄屋は取りつぶしにあいました。その後、屋敷跡に小さい社を建てて、霊を弔っていましたが、最近近くの三島神社に一緒にお祭したので社跡はみかん畑になっています。それから、八衛門等五人が殉難した額が内は、今の清水小学校の正門近くの校庭の片隅に当たります。五人主の項をたたえるため、昭和四十八年(1973)に清水小学校の児童PTA等地元の人たちが奉賛会をつくり『五人主殉難之地』の石碑(1.4メートル)が建てられました。

所在地:今治市五十嵐

65.嘆願書に命をかけた八木忠左衛門

貞享年間(1684~1687)の昔、延喜に八木忠左衛門という情け深くて正義感の強い人がいました。当時延喜村(旧乃万村の一つに当たります。)は、松山藩料の東端に当たっておりましたが、政令が不行き届きなのをよいことに代官主代等の役人が横暴でむごたらしいふるまいをしたため、農民は生活苦にあえぎど

うしようもないところまできていました。延喜村の盆踊りの歌に「盆が来たらこそ、麦に米交ぜて、それにささげをちょっと交ぜて」と言う文句がありますが、米があるかないかの麦飯に少量のささげを交ぜたものが、農民にとっては、最大のごちそうであったようです。ふだんこのような状態ですから、ひどい不作にあうとそれこそみじめな状態であったようです。一時篠地のために祖先伝来の電池を手放すものがいて、そのために耕す土地もなく、住む家もなく逃亡したり、餓死したりする者が跡を絶たなかったようです。今も『千菜田』と呼ぶ田がありますが、飢饉があった時に大根を干した葉と田地と交換した名ごりであるといわれています。
忠左衛門は、こういった農民のみじめなありさまを見るに忍びず、自分の財産を売り払って救済にあたるなどいろいろ努力をしましたが、個人の力ではどうにもなりません。代官に年貢米を減らしてくれるようにとか、扶助米を出してくれるようにといったようなことを何度も頼みましたが、少しも聞き入れてもらえませんでした。悩み苦しんだ末、ついに思いあまった忠左衛門は、村民が困っている様子と役人の不正を詳しく書くとともに、年貢を軽減してくれるようにという意見書を添えて、匿名で藩庁の目安箱に投入しました。思わぬ出来事にびっくりした役人は、いろいろ手を尽くして忠左衛門の居場所を捜しましたが、訴状の文意と筆跡が立派なことから、忠左衛門のしわざだと目をつけ、捕り手を差し向けました。
一方、忠左衛門は、今ここで捕らえられて殺されるようなことになれば、村民の行く末が案じられると思い、一たん身を隠すことにし、息子の小太郎とともに、平素信仰している讃岐(今の香川県)の琴平の金毘羅大権現に、時分の願いがかなえられるように祈願に上がっていました。それを知らぬ捕り手は、忠左衛門の妻や下男下女に、きびしい拷問を加えるなどして取調べをしました。また、鉄板焼きの拷問の道具を持ってきて、真っ赤に焼いた鉄板の周囲へ、村中の農民を呼び出して「忠左衛門の居所を申し出れば、ほうびに銀百枚を与える。もし隠すような事をすれば、一人残らずこの鉄板の上を通らすからそう思え。」と言葉巧みにおどしました。このうまい言葉にまんまとひっかかった飛脚八木某は、ついに忠左衛門の行くえを告げてしまいました。
金毘羅宮奥の院の神前で、大願成就を祈っていた忠左衛門は、駆けつけてきた八木某の「嘆願書をご家老がご覧になって、百姓たちにひどく同情され、年貢の軽減を考えてやるとのことです。代官様も悪事がばれて謹慎を申しつけられました。村人もみんな忠左衛門様のお帰りをお待ち申しております。」と言う甘い言葉を信じ、帰国の途につきました。ところが、桑村郡中村(東予市三芳)のあたりでそれがうそであることが知らされ、さすがの忠左衛門も驚きました。十手を持った捕り手に待ち伏せられていた忠左衛門は、やにわに立花の郷のあたりまで落ちのびましたが、力尽き三島神社の境内でつかまえられてしまいました。忠左衛門は憤慨しましたが、観念して、左小指をかみ切り、境内の椿の葉を取ってそれに包んで、自分は犠牲になってもよいから事がうまく運ぶように祈願して、社殿に献上しました。代官所に連れて行かれた後いといときつい取調べを受けましたが、がんとして自分の正しさを曲げませんでした。やがて、忠左衛門父子は、新町の古寺(現在の今治市大西町新町)の刑場に連れていかれ、打首の刑に処せられました。時に貞享三年(1686)六月二十九日でした。獄吏が今わのきわに、なにか言い残すことはないかと尋ねた時「ご家老様に延喜の農民を頼むと伝えていただきたい。」と言ったそうで、どこまでも農民のことを思うその立派な態度に、立ちあった者一同が感心したということです。また打首の前に食べさせてもらった夏柑の粒が、せがれの小太郎の首の切り口から飛び出したそうで、けなげな子供の最期に役人も目をおおったそうです。
忠左衛門父子の首は、竹槍に刺されてさらされましたが、わが父のように親しみ尊んだ忠左衛門の死を村人たちはひどく悲しみ、むせび泣きをしながら合掌しました。こういった話によくあるケースですが、真偽のほどはわかりませんが、忠左衛門の場合も打首寸前に助命せよとの命令が出され、早馬が駈けつけましたがわずかに間に合わなかったという説もあります。
その後、忠左衛門父子の霊は、乗禅寺(真言宗)の裏山に葬られ、てい重に祭られています。当時、罪人扱いにされたためか、石碑も粗末で摩滅していて字もよみにくいところが多いようです。

所在地:今治市延喜

66.村人にかゆ弁当をすすめた越智孫兵衛

寛文から元禄のころ(1661~1703)、阿方村(旧乃万村)の庄屋に越智孫兵衛通勝という人がいました。仏教を信仰し、慈悲深く聡明な人であったので、村人からも非常に尊敬され親しまれていました。阿方村は、先の忠左衛門の延喜村に隣接した村で、延喜村同様松山藩に属しておりました。当時七割もの年貢米が徴収されるというありさまで、農民の苦しみは大変なものでした。忠左衛門の例を見てもわかるように、こんな時に年貢米を減らしてくれるように訴状でも出そうものなら、それこそ打首かはりつけ刑間違いなしです。孫左衛門はいろいろ考えあぐんだ末、一策をたてました。
ある年のこと、藩の命令で用水池を造ることになりました。孫兵衛は村人を集め、「明日の工事には米麦半々にしたおかゆを竹の

筒の入れて持っていきなさい。にぎり飯は絶対持っていかぬようにしなさい。」と言い渡しました。村人たちは不審に思い、なぜそんなことをするのか尋ねましたが、孫兵衛はそのことには触れず、「まあ、それはあとでわかるから私の言うようにしなさい。」と優しく言いました。平素尊敬され慕われている孫兵衛のことです。それ以上問い返す者もなく、皆その通りにすることにしました。池役の昼飯時がやってきました。どの村のお百姓もにぎり飯をほうばっているのに阿方村のお百姓だけは竹筒に入ったおかゆをすすっていました。他の村人や役人の目に止まらぬはずはありません。さっそく孫兵衛は役人から呼び出しを受け、「阿方村の百姓だけが真っ昼間からどぶろくを飲んでいやがる。なんということだ。」ときついおしかりを受けました。孫兵衛はいかにも悲し気に言いました。「実は百姓どもが飲んでいるのはおかゆでございます。阿方村は地味が悪く米が出来ませんので年貢米を納めましたら残りはほとんどありません。それで腹が減ってつらかろうと思いますが、他の村のようににぎり飯を持ってくることができないのです。まことに阿方村の百姓どもがあわれであわれでなりません。事情をおくみ取りいただき、ご年貢米を減らしていただきますようお取り計らいの程よろしくお願いします。」
孫兵衛の話を聞いて深く同情した役人が、このことを藩主に申し上げたため、年貢米をそれまでの七割から六割に下げてくれることになりました。阿方村のお百姓が孫兵衛に心から感謝したことはいうまでもありません。おかげで享保十七年(1732)の大飢饉のときに他村では多数の餓死者が出ましたが、阿方村では出さずにすみました。
孫兵衛は元文三年(1738)にこの世を去りましたが、その遺徳をしのび感謝するため、村人はりっぱな墓を延命寺(真言宗)の境内に建てて、てい重にお祭りしました。今でも毎年八月七日に感謝の慰霊祭を行っています。阿方貝塚の発見者故越智熊太郎氏は孫兵衛の子孫に当たります。
なお、減税の成功は竹筒法のほかに、孫兵衛の家が二、三の有力な藩士と血縁関係にあったことも影響しているのではないかという人もいます。
先に述べた近藤八右衛門と八木忠左衛門とここで述べた越智孫兵衛が、それぞれ郷土の誇る義民として、この地方では有名な歴史上の実在の人物ですが、古記録などあまりなく、ほとんどいい伝えによる伝説的な面が多分にありますので、ここに伝説として取り上げたようなわけです。

所在地:今治市阿方

67.山路村のために尽くした橋田久兵衛

江戸時代のはじめころ、山路村(旧乃万村)の庄屋に橋田久兵衛という人がいました。当時、山路村の田地のほとんどに引き水がなく、雨が降るのに任せておりました。そのため、よほど雨でも降れば別ですが、日照りでも続けばほとんど収穫はありませんでした。それでも、山路の農民は、毎年、どうか雨が降りますようにと祈りをこめて、田植えは欠かしませんでした。何とか引き水を得たい。これが農民の切なる願いでした。引き水をするとすれば、隣接している今治藩の馬越村(旧日高村)を通して総社川から取るということになりますが、山路村は松山藩になっており、藩が違うのでなかなかの難問題でした。というのは、水利のことは農民にとっては一つの生命線になるので、同じ藩内でも容易なことではないのですちょっとした溝やせきのつけ変えにも古くからのしきたりがあり、争いがしばしば起こっています。久兵衛は、このままにしておいてはいつまでたっても山路村の農民は救われぬ。何とかしなければと身命をかけて、馬越村の庄屋と掛け合ったり、松山藩の役人に訴え出たりしました。お掛けで引き水に成功し、以来山路村にも秋の収穫期には沢山稲を刈ることが出来るようになり、農民はたいそう喜ぶとともに、久兵衛に感謝したということです。
この引き水に成功したのは、橋田久兵衛の努力によるところが最も大きいことはいうまでもありませんが、他に妻が松山藩士と親戚関係にあり、藩士が松山藩主に申出たことも大きな原因の一つであるという説もあります。また、松山藩主と今治藩主とは親戚関係にあったので、話が案外うまくいったのではないかともいわれています。
なお、久兵衛については、次のようなおもしろい話が残っています。
江戸時代には、山林の中にある大木巨樹は山の所有者であっても、官林とされて自分勝手に切ることは出来なかったようです。ところが、久兵衛のその官林の木を切って、家屋に当てていたのがお上に聞こえ、おとがめを受けたことがありました。そこで、久兵衛は、「お上にとって大切なご年貢を保管しておくおこなし部屋がいたんだので、若しものことがあってはと考え修繕させていただきました。やむをえず少しばかり用材をいただいたのですが、お上の掟にそむく気持ちなど毛頭ございません。」と説明しておわびしたところ、お上は苦しくないと見逃してくれたそうです。おこなし部屋の訴えは、久兵衛の妻が考えたという説もありますが、いずれにしても久兵衛夫妻は中々の知恵者で、山路村の村政に貢献するところが大きかったようです。二人のお墓は、山路の瑞泉寺(曹洞宗)の後ろの山にあります。

所在地:今治市山路

68.綿花に命をかけた指切りの山本九郎兵衛

江戸時代の初めころ、今の大西町宮脇に山本九郎兵衛清安という農民思いのとても立派な庄屋さんがいました。宮脇村は松山藩でしたが、年貢の負担が重く、苦しい生活を強いられていたので、少しでも生活の足しにしようと、九郎兵衛のころに綿花の栽培を始めました。しかし、このことが役人の目に止まらぬはずはありません。ある時、宮脇村を巡視に来た検見の役人が、木綿畑を見て、綿花にも課税しようと、九郎兵衛の家にやって来ました。九郎兵衛は、「これまで、木綿畑を調査したことも、これに課税を掛けたことも一度もございません。どうか綿花への税だけはご勘弁下さい。」と頼みこみました。役人は、「何の理由もなしに、この宮脇村だけを見逃すわけにはいかぬ。免税してもよいという何か証拠でもあるのか。しっかりした証拠でもあるのなら許そ

う。」と意地悪気な口調で返事を求めました。九郎兵衛は返答に窮しましたか、「ございます。隣の部屋に置いてありますので、しばらくお待ちください。」ときっぱり言い放ちました。隣室に行った九郎兵衛は、間もなく綿花に包んだものを持って来て、役人に、「証拠はこれでございます。」と言って渡しました。役人は、綿花を開けて驚きました。鮮血したたる一本の指が入っていたのです。さすがの役人も、九郎兵衛の豪胆な態度に驚き、「わかった、お前の言うようにしよう。」と言って、見のがしてくれることになりました。
九郎兵衛は、延宝八年(1680)十一月二十二日に七十七歳で天寿を全うしました。現在、宮脇の法隆寺(真言宗)にお祭しており、芳名は「泰龍常安居士」と言っています。また、宮脇の共同墓地の近くの丸山池の土手に、九郎兵衛のものといわれる墓があります。墓名は、正面「南無遍照金剛」右側面「文化十二年迄凡二百年余改立者也」左側面「山本氏先祖九郎兵衛墓」とそれぞれ書かれています。人々は、このお墓のことを「指切地蔵」と呼んでいます。なお、里人は、九郎兵衛の肝の太さ、勇敢な心をたたえて、彼のことを「指切九郎兵衛さん」とか「指切さん」と呼んで、慕っています。それから、この山本九郎兵衛は、伊予の豪族、河野家の流れをくむ重茂山城主左兵衛尉通定の子孫といわれます。また、江戸時代末期の郷土の画家として有名な山本雲渓は、九郎兵衛より五代あとの子孫に当たります。

所在地:今治市大西町宮脇

69.芋地蔵になった下見吉十郎

芋地蔵で有名な大三島の上浦町瀬戸崎の下見吉十郎は、江戸前期の人ですが、若い時分に四人の子供が相ついで亡くなり、世の無常を感じ、悲しみのうちに毎日を送っていました。ところが、ある夜、今治の郷の地蔵尊が枕辺に出現せられ、しきりに発心修行を促されました。最初はどうしたものかと迷っていましたが、再度立たせられ、信仰を勧められたので、遂に、仏の道に仕えることに決心しました。早速、郷の地蔵尊にお参りし、その旨をお伝えして、身を清め、木造を彫刻しました。かくて、正徳元年(1711)六月二十三日に、この木像を守り本尊とし、白装束に身をかためて、六部行者となって日本廻国の途につきました。―この廻国の様子については「日本廻国宿帳」「官報謝帳」などに記録されています。―

あちこち行脚し、正徳元年十一月二十二日に、薩摩国(鹿児島県)の伊集院村の土兵衛と言う農家に泊めてもらいました。そこで、さつま芋をご馳走になりましたが、余りの珍味に驚き、さつま芋を貰い受けることにしました。―実は鎖国時代のことで、他国への移出が厳禁されており、藩主の許可が得られにくく、土兵衛から断られ、やむなく厨子に隠して持ち帰ったと言う説もあります。―途中、幾多の困難に遭遇しましたが、やっと、これを持ち帰った吉十郎は、里人にその栽培法を教えました。その結果、翌年から年を追うにつれて芋つくりが広まり、お陰で享保天保などの飢饉の時にも多くの人が救われました。吉十郎は、廻国後、前と同じ四子をもうけ、自らも八十二歳まで生をまっとうすることが出来ました。後の人は、吉十郎に感謝して芋地蔵さんと呼んでお祭りしました。この芋地蔵は、吉十郎のいた瀬戸崎の他、越智郡から広島県の島々のあちこち祭られており、今治にも八丁の常明寺(真言宗)に見られます。なお、吉十郎がさつま芋を広めたのは、甘庶先生として有名な青木昆陽より約三十年古いと言われています。しかし、個々的には、今治藩の家老であった江島為信が日向(宮崎県の一部)の飫肥の地より、初めて取り入れ、越智群の大島地方に試食したのが元祿四年(1692)で、吉十郎より約二十年古いとも言われています。
しかし、いずれにしろ、全国的普及の面から見れば、昆陽と比較するのはどうかと思われる面もあります。ただ、世間一般には、さつま芋の栽培を全国的に普及したのは、昆陽とするむきが多いですが、これは多分に過大評価しているきらいがあります。昆陽以前にも、全国各地で栽培されていたと言うのが事実のようです。つまり、昆陽が全国普及を唱えていた時分に、吉十郎のように、本場の薩摩から移出の厳禁を破って他国へ持ち運ぶものが、ぼつぼつと考えられ、それがやがて、全国的な普及への足がかりとなったと、言えるのではないかと思います。
ここで、さつま芋の栽培の普及について云々するのは学説的になり、本稿の主旨にあいませんのでこの程度にとどめます。

所在地:今治市郷本町

70.豪傑でとんちにとんだ権八さん

昔、阿方に権八さんというとても力持ちでとんちにとんだ人がいました。権八さんは、百五十六キロも目方があり、相撲取りのように立派な体をしていました。ところが、大きな体ににあわず、身のこなしも軽やかで、腰にごつい帯をしめ、それに米一俵(四斗五升入り、八十一リットルに当たります。)を結びつけ、大きな体をゆすりながら高い木によじのぼるような芸当をやって怪力ぶりを見せ、人を驚かしたそうです。権八さんは、言うことを聞かないような人の耳を引っぱるくせがありましたが、大方の人は、ちょっとでも引っぱられると、もんどりうってころげたそうです。この権八さんについては、他にいろいろおもしろい話が残っていますので、次にそのうちのいくつかを紹介してみましょう。
○旅行をしていて、讃岐の善通寺のある宿屋に泊まった時のことです。土で出来た風呂へ入る時、権八さんが「土風呂は気色が悪いがこわれはしないか。」と宿屋の主人に尋ねたところ、主人が「お客さん、つまらないことを言わないでくださいよ。いくら大力の人だって、びくともするもんですか。」とつっけんどんに答えました。頭にきた権八さんは、湯船の中で全力の力を振りしぼってふんばりました。あまりの力に湯船はこわれてしまい、灰の中へドカンとしりもちをつきました。「アッチチ……」権八さんの悲鳴に宿屋の主人は目を白黒させながらあやまったそうです。
○ある時、今朝をつけ、深い編笠をかぶり、尺八を手にしたちょっと柄の悪そうな虚無僧が権八さんの家の門口へやってきて、ものごいをしました。権八さんは、虚無僧に「お通り」と言いました。虚無僧は「失礼千万なやつだ」。とたいそう腹を立てました。「土百姓の身分故、なんと言ったらよいか知りませず失礼しました。どのように言ったらよいかお教え下さい。」と権八さんは低姿勢で尋ねました。虚無僧は「ご無用と言うものだ。」と偉そうに答えました。そこで、権八さんは、隣から隣へと虚無僧がやってくるより一足先に裏口から入って「ご無用」とおらんでまわりました。虚無僧は、とうとう権八さんの家の近くでは何ももらうことが出来なかったそうです。
○ある夜中に権八さんの家に泥棒が入ったことがありました。権八さんは、ぐうぐう高いびきをかきながら寝ていましたが、ゴトゴトというもの音で目をさました。気をつけて周囲をよく見ると、壁を包丁で切っていることがわかりました。権八さんは、一瞬この泥棒をつかまえてやろうと思いましたが、大目に見てやることにし、切り口に金属製のちゃがまのふたを持ってきて、内側から押さえつけました。それを知らぬ泥棒は、必死で切ろうとしますが、少しも前向いて切れません。そのうち包丁の先が折れてしまいました。権八さんは、「これこれ、この壁は金で出来ているのじゃ、お前には無理だ無理だ。」といって大笑いをしました。泥棒はびっくり仰天して、逃げ帰ったそうです。
○最後に、こんなとんちにとんだ話があります。
ある会合としていた時、あるお百姓が、「粟おこし千個(百個という説もあります。)と柿のくし十本を時間内に食べればたいしたものだが、なんぼ権八さんが豪傑でもこれだけは無理だろう。」と冗談半分に言いました。権八さんが、「何か条件でもあるのか。」と尋ねたところ、お百姓は「ある時間内に食べてくれれば、茶を飲もうが、水を飲もうがかまいませんよ。」と言いました。権八さんは「そんなら大丈夫だぜ。」と言って、せいろう(蒸し器、このあたりでは、せいろとも言います。)で粟おこしを蒸して、濃縮してわんに入れ、柿のくし十本は灰にして、ペロリペロリと食べてしまい、「やあ、ごちそうになった」と言ってケロリとしていました。見物していた連中は、このとんちぶりには驚きいったということです。
この権八さんについては、他にもいろいろ変わった話がありますが、長くなりますので、この辺で終わります。詳しいことは、越智三溪著「郷土乃万の伝説」にも出ています。
なお、権八さんは、先に「66村人にかゆ弁当をすすめた越智孫兵衛」で述べました阿方の庄屋の越智家の分家に当たるそうで、亡くなったのは、享和三年(1803)九月三十日になっています。

所在地:今治市阿方

71.大力の吉蔵さんとかじ取り

昔、馬島に塩見勝衛門という豪商がいました。勝衛門は、十三段巻の帆船で瀬戸内海から遠くは日向(今の宮崎県)の方面まで出て行って魚を買い集め、阪神方面へ持って行って尼崎等の魚市へ卸しました。大きな船に魚を満載していたので、勝衛門の船が入港すると魚市の相場が変動したと言われるほどの繁盛ぶりでした。この勝衛門は、馬島の故塩見米太郎氏の先祖で二代目に当たるということです。勝衛門が常時使っていたといわれる浅黄色の布製の財布が家宝として最近まで残っていたそうです。
ところで、この勝衛門が繁栄をきわめたのは、彼自身の才能もさることながら配下に屈強の乗組員がこれを撃退したので、後には海賊どもが、勝衛門やその配下に恐れをいだいたということです。ここにその武勇伝を二つほど紹介しましょう。
ある時、讃岐の塩飽諸島を通航していると、海賊どもが船を止めかき上がって来ました。そして「金を出せ。」と脅迫しました。水夫たちが「お前たちにやる金なんかない。」と反発すると、相手の海賊どもは刀を抜いて振りまわしながら「金を出さんのなら命をもらうんじゃが、どうすりゃあ。」とおどします。乗組員のなかに吉蔵さんというすごい力持ちがいました。この帆船には魚を活かしておく生簀がありましたが、航海中は、船の水が絶えず変わっているからかまいませんが、港へついたら碁石をいっぱい詰めた

十八貫(六十七・五キロ)の土俵を柱へつって動かし船を左右に振らして生簀の水を入れ変えていました。この吉蔵さんは、海賊どもが大ものを言っているところへこの十八貫の土俵を右手の手のひらに乗せてゆうゆうとやって行き「ああ、わしらには金がない。お前等腹が減っとろうがい。これでも食うがええわい。」と言って差し出しました。続いてそれを見ていたかじ取りをしている某男が、かじ柄(大きな帆船であるので、元気な男でやっとかたぐことができたといわれています。)をひょっと引き抜いて「団子もろたら箸がなきゃあ食えまい。そりゃあ箸やろ。ほい。」と言って、これも右手で端の方を持って軽く差し出しました。そしたら首領格の男が色まいて、「まことに無礼なことをいたしました。こんな豪傑ぞろいの船へこうやってろくでもないことをしました。金もらいどころではありません。命だけはどうかお助け下さい。」と平身低頭して言ったかと思うと海賊どもはそのままほうほうの体で逃げて言ったそうです。
それから今一つこんな話があります。ある島の近くで潮待ちをしていたところが、若い衆のにぎやかな声が聞えてくるのです。それで吉蔵さんは先のかじ取りの某男と一緒に、何をやっているのだろうと興味本位で島に上陸してみました。声のほうへ近づいてみると、若い衆が大勢で力くらべをしておりました。相撲をとったり、石かたぎをしたり、それぞれに力くらべの最中です。特に石かたぎに人気が集まっていました。小さい石から大きい石へと順々に上げておりましたが、二百貫(750キロ、二十貫という説もあります。)の銘の入っている石になると、入れ代わり立ち代りかつごうとしますがだれがやってもどうしても上がりません。はたで見ていた二人が、ワッハハ……と大きな声を出して笑ってしまいました。すると、若い衆たちはすごく腹を立てて「おどれ、旅の奴、どこから来やがったんぞ。わしらがようかたがんもんを何で笑いやがる。大きに笑いやがるのならようかたぐに違いない。かたいでみい。かたがんかったら命がないと思え。」と決めつけました。二人の大力は、平身低頭で断りましたが、どうしても承知しません。殺してやるとものすごい剣幕なので、吉蔵さんは、着物を脱いで、ふんどし一つになると、うんと腰を落として石を持ち上げ、ぽーんと海へ放りこみました。若い衆たちは、それを見ると、くもの巣を散したように一目散で逃げて行ってしまいました。吉蔵さんとかじ取りの二人は、ワハハ……と超え高らかに笑いました。
塩見勝衛門の配下であった吉蔵さんは、塩見家の一族だったそうです。気は優しくて力持ちといった好人物であったので、勝衛門の信頼もことのほか厚かったといわれています。

所在地:今治市馬島

72.殿様の奥方を背負った豪傑男

昔は、馬島にはまったけが沢山はえていました。俗にまったけ山という山がありますが、ここでは特に大きなまったけがよくとれたそうです。それで、毎年秋が来ると、今治の殿様は、奥方や大勢の家来とともに、馬島のこのまったけ山にたけ狩りに来ました。
ある年のことです。殿様と一緒にまったけ狩りをしていた奥方が、沢山とれるのでつい夢中になり、深い茂みに入って、よう出て来ぬことになりました。殿様は心配して周りの家来に、「だれかはよう行って背負って出して来い。」と命じました。皆顔を見あわせるばかりで、だれも連れ出しに行こうとしません。村の総代は仕様が無いので浅おじ、要おじという元気者をつかまえて「お前たち二人が行ってお連れ申して来なさい。」と言い付けました。浅おじは、「滅相もございません。」恐れ多いことです。お殿様の奥方を背負うてもしものことがあったら大変なことです。ほかのことならいざしらず、どうかご勘弁下さい。」と断りました。そしたら武藤権七という字(本名以外につけた名)ともつ、むこうみずの豪傑男として知られた要おじは、少しも憶する色無く、「いやいや、お殿様の奥方を負えるなんて、こんな光栄なことはまたとないこっちゃあ、粗こつなことをして、そのまま手打ちになっても本望じゃあ」と喜びいさんで、おおい茂った草木をかき分けかき分けして山の中に入り、奥方を無事背負うて救い出しました。殿方も奥方もすごく喜ばれ、要おじに沢山のほうびを与えました。要おじは、いつまでもこのことを自慢話にして人々に聞かせたということです。
とにかく、要おじは、肝ったまの太い豪傑男として近郷在にその名をとどろかせた人物でした。

所在地:今治市馬島

73.山城姫の最期

天正年間(1573~1586)の昔、宮が崎(旧桜井町)の霊仙山に中川山城守親武が城主として城を構えていました。山城守は、武勇の誉れが高い河野十八将の一人でしたが、訳があって僧侶となり温泉郡の岩子山のふもとに円久寺という寺を建立し、一族の菩提(仏果を得て極楽往生をすること)を弔いました。後に霊仙山に城を移し、同じ名の円久寺(曹洞宗)を建立し、薬師如来を安置して深く信仰していました。山城守は、体格に恵まれていましたが、腹痛と筋肉痛のため常々苦しみ、不幸にして天正五年(1577)六月七日に陣中で病歿しました。義政を慕っていた村民は、彼の死を大変惜しんだということです。臨終の時、薬師如来に腹痛筋肉痛に悩む者のために、信者の身になってお取り次ぎをする旨の誓願をたてたそうです。その後、人々はこの薬師

如来を山城薬師と呼びました。その加護を受けようと参拝者も多いそうです。天正九年(1581)に山城守を想起して書いたと言われる肖像画が、現在円久寺に保存されていますが、この肖像画は、この地方では最古のものといわれています。
ところで、この山城守が亡くなってからは、弟の常陸介豊澄が代わって陣中指揮に当たっていましたが、天正十三年(1585)小早川勢の攻撃を受け、遂に落城すことになりました。山城守には、山城姫というとても美しくて聡明で武術に勝れた息女がいました。この時、山城姫は、得意の長刀をふりかざして奮戦、敵を散々悩ましたあげく、力尽き刀で持って自決しました。時に二十八歳であったといわれています。この山城姫について次のような風変わりな話が残っています。
昭和二十五年(1950)の八月、宮が崎の山城守のお堂の右の方のお姫山―高さ40メートルくらいの小高い山―で二人の少女(秋山、渡辺という当時十三歳であった少女)が遊んでいたところ、眼前に突然白鉢巻をした白衣の美しいお姫様が出て来て、少女たちを驚かせました。その後、姫を見た秋山という少女の父親の伊十郎氏(当時六十七歳)は、三年間も脳病で床につきなやんでいたのが、この少女の話を耳にし、これこそかねがねうわさに聞く山城姫の御霊であると、一心に自分の病気が治るように祈願してから、日増しに快方に向かったそうです。伊十郎氏は「お礼参りが出来るようになれば、お堂を建てます。」と言う心願を掛け、他の信者の援助も仰いで、後に彼自身の手で、お堂と通夜堂を建立しました。伊十郎氏もある夜、枕もとで少女が目にしたのと同じ姫の姿を拝んだそうで、このことがあって以来、体のほうもすっかりよくなり、八十一歳の老齢まで元気で生を全うすることが出来たということです。また、話がちょっと変わりますが、昭和二十八年(1953)五月に鯉池住宅の宮内筆代女史が、宮が崎で姫の話を耳にし、姪に当たる今井那津子さんに尊像をかいてもらいました。今井さんは、体を洗い清めるとともに断食して精神統一をはかり、祈願をこめ、八日目に山城姫の尊像を空中に拝し、鉛筆一本で、二時間ほどで書き上げました。しかも、その時に現われた姫の姿は、少女や伊十郎氏が仰いだイメージと全く同じだったということです。後に偶然かどうか、近くのある人が、お姫山の入口にあった俗にいうお姫岩という岩を動かしたところ、不幸ごとが続いたという話も残っています。
科学の進歩した今日から考えた時、全く奇妙な首をかしげたくなるような話ですが、これは伊十郎氏の妻に当たる秋山マサ子さんや、円久寺住職の故藤原画雲和尚から直接聞いた話です。心の悩み事のある人や脳病に悩む人、更には、入学試験などでおかげをこうむりたい人など参詣者もかなりいるということです。旧暦の三月四日を山城姫の縁日として法要を営んでいます。最後に、故画雲和尚が山城姫について詠じた歌を二首挙げておきます。

人皆を 清き心に なさばやと あらわしませり 姫はこの世に
我人の 心のなやみ 身のいたみ すくいたまえと 祈る姫君

所在地:今治市宮ヶ崎

74.お産の神、鷹取殿

天正年間(1573~1591)の昔、新谷の吉祥寺(臨済宗)の西南二千メートル余の古鷹取山(今治市古谷)に、正雄か紀伊守経長が城を構えていました。ところが、天正十三年(1585)七月十七日、豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景の不意の夜討ちにあいました。しかし、鷹取城は、高い所が居城になっていた上に、勇士の奮戦めざましいものがあり、周囲の城が、隆景の攻

撃で比較的早く落城したにもかかわらず、なかなか落城しなかったそうです。朝倉村に射谷が窪(矢の窪とも言います。)という地名が残っていますが、これは、両者の軍勢が猛烈な弓矢の撃ちあいを演じ、このくぼみの所へ、矢が沢山落ちたところからきているものだともいわれています。ところで、この鷹取城陥落の秘話として次のようなおもしろい話が残っています。なかなか鷹取城が落ちないので、小早川勢がしびれをきらし、ついに和議を申し込み、みつぎ物として、つづらを紀伊守に送り届けてきました。そのつづらを開けると、蜂の群が飛び出し、沢山の者が刺されました。二回目のつづらが来た時に、これも蜂だろうと考え火をつけたところ、今度は火薬であり、大爆発を起こして大きな損害を受けました。これをのろしとして、敵が一せいに攻めこんできたため、城中は右往左往の大騒動で、散々な目にあいました。―この戦法を使ったのも攻め込んで来たのも、実際は来島水軍であろうといわれています。―この時、山ろくの蔵の台という所(今治市古谷)に、沢山の兵糧米を保存していたのが焼けたらしく、明治三十八年(1905)、雨で土砂がくずれた際、地中から消し炭のように黒く焼けた米が沢山出てきたそうです。落城したその夜、紀伊守、奥方をはじめ、一族郎等は、月を仰ぎながら吉祥寺の後ろの鷹取山に逃れ、ここで潔く切腹しました。今わの時に、紀伊守を奥方は、「国家安康、災難削除、人畜平安を守護する。」と言う誓いをたてました。また、ちょうどご懐胎(赤ちゃんを身ごもっておられること)の身であった奥方は、わが霊は、永遠に妊婦を守護し、安産を遂げさせ、男児には『福徳知恵』を、女児には『端正麗姿』(顔、形がきれいで整っている様子)を与えるという誓いをされたということです。
時代は下って、今から約二百年ほど前、吉祥寺の寛嶺という住職の時分に、枕もとに紀伊守の奥方が立たれたことがあったので、供養するため墓石を建てました。そんなわけで、この墓石を二、三度刻み換えたのですが、そのたびに、奥方の法名を刻んでいる側に、白い線が表われたそうです。今も吉祥寺境内にある鷹取殿に収められている墓石には、白い線が残っているそうで、人々は、これは奥方が生存中に腹帯をしていた白い布ではないかといい伝えています。このようなことがあって以来、近郷近在の人々から崇拝され、参詣する者も多いそうです。とりわけ、安産福徳を得た人は数知れぬということです。今もこの鷹取殿にはご利益を受けようとする人や、受けた人が祭った子供の小さい着物や写真が、沢山納められています。その後、ずっと従臣に当たる清水一族―最近は吉祥寺―が、その霊を弔い、特に旧暦の四月十三日を鷹取祭と称してお祭りをしています。

所在地:今治市新谷

75.岡部十郎親子の最期

大井と小西(現在の大西町)の境に、岡部十郎が居城していた重茂山があります。天正十三年(1585)の昔、小早川隆景の攻撃を受けましたが、重茂山を包囲された時に、敵に自軍の困窮の様子がわかってはというので、わざと、食糧に恵まれているように見せかけるため、洗い米の水を流して敵の目を欺いたそうです。後にこのことがばれ、いっきに攻めこまれ城主岡部十郎夫妻

をはじめ、一族郎党の多くはここで討ち死にをしたと言うことです。
ところで、この岡部十郎にとても美しくて賢い姫がいました。姫は、両親と一緒に討ち死にを決意していたのですが、何とかこの城を逃れて家を中興してくれという両親の命に従って、城を落ちのびることにしました。菅笠をかぶり粗末なぼろけた身なりをして、落ちのびていたところ、たい松を飾した敵に見つかり、自害してしまいました。―見つかった場所は大西町山之内土居だと言われています。―敵が現れた時に、萱の中に身を隠していたのですが、菅笠が敵の目にとまったのが運のつきであったと言うことです。しかし、姫の最期はかなかな立派であったそうです。その後、この地を衣笠と呼び、村人は祠を建てて、衣笠の弁天様としてお祭しています。この弁天様に、「一生菅笠をかぶりません」とお誓いをたてると、お陰を受けると言い伝えられ、お参りに来る人も多いそうです。また、姫のために、重茂山城の西南に建設中であったと言われる御殿の跡を、土地の人は上の城<じょうのしろ>と呼んでいます。なお、岡部十郎は、熱心なキリスト教の信者であって、重茂山は、十文字山と言い、キリスト教に関係がああるとするむきが多いようです。現在、この弁天様の祠の前に、キリスト教信者が崇拝したといわれる石碑もあって、その名残をとどめています。
所の人は、毎年新の五月二日を縁日としてお祭し、子供たちが相撲を披露し、その霊を弔っています。それから、俗に、岡部十郎夫妻の墓と言われるものが、今治市野間覚庵にあり、五輪塔二基が残っており、国の重要文化財になっています。―歴史的に考証した時には異論もありますが……―

所在地:今治市大西町山之内

76.二人の仲を取り持ったまったけ狩り

昔、江戸時代の終わりころ、馬島にヲタカさんというとてもすばらしい美人がいました。さしずめ今治小町というところで、島内はいうに及ばず、地方にまでその名が聞こえ、若い衆のあこがれの的となっていました。そんなわけで今治の殿様の目にとまらぬはずがありません。まったけ狩りで馬島を訪れた殿様は、ヲタカさんを一目見るなり、すっかり魅惑されてしまいました。―当時、今治藩の殿様は、春に吹揚の堀で網を使って魚を取ることと、秋に馬島でまったけ狩りをするのを一つの年中行事のようにしていたということです。―それ以来、殿様は寝てもさめてもヲタカさんのことが頭から離れません。とうとう人を介して腰元として迎え入れました。城内での殿様のヲタカさんに対するちょう愛ぶりはたいへんなもので、ヲタカさんは、毎日楽しい日々を

過ごしました。しかし、そこは封建社会のこと、余り身分の高くないヲタカさんは、女盛りを少し過ぎると殿様の気持とは裏腹に周囲の勧めで殿様の元を離れて、生家の馬島に帰らなければならないことになりました。殿様は、しなやかで気品があり優しいヲタカさんと暮らした過ぎし日々のことが頭から片時も離れません。しかし、殿様は一度帰したものをそうたやすく城内に入れることができず、恒例の秋のまったけ狩りの来るのを唯一の楽しみにしておりました。まったけ狩りの時には奥方や家来が大勢ついて来ましたので、殿様は日が暮れるのを待って、単身でこっそりとヲタカさんの家の裏口から入って行き「ヲタカや達者か」と声をかけ、寸時ではありますが逢瀬を楽しんだということです。一方、ヲタカさんも女盛りを過ぎたといっても、まだ殿様から下がった時は、若い身空であったので、結婚ということもあったわけですが、かって腰元であった関係でだれにでも嫁ぐわけにもいかず、独身で過ごしました。これもさしずめ封建社会の災いといえましょう。それでもヲタカさんは殿様同様、年に一度の来訪を心から待ち望み、何よりの楽しみとしていたそうです。
このヲタカさんは、馬島開発の先祖の初代塩見五郎左衛門の分かれの塩見与七から四代目に当たる駒之助の娘で、現在も七代目の太助氏(馬島在住)方に位牌が祭られています。位牌には「心室妙三信女位」(表)「明治二十二年丑九月十二日ヲタカ事」(裏)」と書かれています。また、太助氏の近くの温室あたりを殿様屋敷と呼んでおり、殿様が訪れたところだといわれています。
まったけ狩りが殿様とヲタカさんの仲を取り持った話といえましょう。

所在地:今治市馬島

77.直助の悲恋

昔、今治藩に直助という城下きっての美青年がいました。直助は、黄金町に住居を構えた窪田武太夫という謹厳実直な武士の中間奉公(武家の召使い)をしていました。四角四面な武太夫の感化を受けて、直助も毎日とてもまじめに勤めておりました。ところが、この直助が、あるふとしたことがきっかけになって、城下のはずれに住む掛茶屋の娘と恋仲になり、人目を忍んで夜ごとに逢瀬を楽しむようになりました。これで事が住めば何のことは無かったのですが、運悪く、ある晩用事ができて夜遅く帰宅した武太夫に、塀を乗り越えて外出しようとしている現場を見つけられました。しかし、初めてのことだというので、この時は、以後絶対掛茶屋の娘に会わないという約束をする程度で、大目に見てくれました。数日の間、何とか我慢出来た直助も恋の病に打ち勝つこ

とが出来ず、やがて女のものに通うようになってしまいました。ある夜、武太夫に急用が出来、直助の寝床を尋ねられたため、直助がすっぽかしていることがばれてしまいました。主人に忠勤を尽くせないようなふらちなやつは一思いに殺してやると、武太夫はカンカンに怒り、抜刀して直助の帰りを塀の内から待ち構えていました。そんなことを何も知らぬ直助が、塀によじ上り頭を出したところを、武太夫の大上段に振りかざされた刀で首筋を切りつけられました。あまりの勢いに無惨にも首と胴体が切断され、首は庭内に、胴は堀の外に、ポコン、ドスンところがり落ちてしまいました。ところが、このことがあって以来、武太夫一家に不祥事、異変が相次いで起こりました。特に頭に関する怪我や病気がよく起こりました。これは、てっきり直助のたたりだといわれるようになり、小さな社殿を建てて手厚くお祭りすることにしました。また、直助の恋人であった掛茶屋の女も、その後七十余歳で世を去るまで、独身で過ごし、亡き直助の霊を弔ったということです。この社殿は、現在は末広町三丁目の丹病院(小児科本宅)の端にありますが、戦前は田んぼの端っこに、つちとりもちやすずたけや榎の木などのおい茂る中にポツンと建っていました。(美須賀中学校が建築された当初は、校庭の一すみにあったのですが、占領軍から学校にお宮を建ててはならぬというお達しがあって現在の所へ移転しました。)この社殿は、『しどう霊神』と言われ、縁結びの神様として、女の人のお参りが多いようです。また何でもお参りすれば願い事が成就されるとかで、お年寄りのお参りもぽつぽつ見られます。現在、末広町三丁目の町内会の方々が中心になってお祭をしているそうです。

所在地:今治市末広町

78.桶底に消えた良介

慶長年間(1596~1614)の昔、良介というこのかいわいきっての美青年がいました。この良介は、今治城下から程遠からぬ所にある、ある山寺の僧侶でしたが、祖先は由緒ある平家と言われ、風貌態度は、どことなく気品がただよっていました。修業のため、毎日托鉢を持って城下をまわっていましたが、多くの女性が良介に思いを寄せていました。仏に仕える身とあって、そん

なことに目もくれなかった良介でしたが、いつの間にか、みすかと言う城下の武家娘に思いを寄せるようになりました。そして、人目をしのんで、逢う瀬を楽しむまでの恋仲になりました。このまま事が運べば、別に言うことはなかったのですが、かねがね好意を抱いていた同じ家中の若侍某は、良介を恋敵と考えるようになりました。そして、良介は藤堂高虎拝領の名刀を奪おうとして、二人の若侍を傷つけたという若侍某のでっちあげの謀略にかかり、あわれにも死罪の刑にあうことになってしまいました。ある春の夕暮れ時に、検死者として恋若侍某のもとに小舟に乗せられ、蒼社川尻に連れて行かれました。皮肉にも、良介が平素夕刻の鐘を撞いていた同じ鐘の音を聞きながら、激流の中に体を縛られたまま放りこまれ、哀れな最期を遂げてしまいました。その夜、みすかも蒼社川の岸辺に流れついた良介が乗っていた同じ舟に乗ってその跡を追いました。歳月が流れて、この二人の話が忘れ去られようとした頃、また、人々の記憶を呼びもどすような、奇怪な出来事が起こりました。因果はめぐると言いますが、同じ春の夕暮れ時、山寺の鐘の音を聞く頃、良介を死罪に追いやった若侍某が釣りをしての帰りに、良介が放り込まれた激流の箇所を舟で横切ろうとしていて、舟べりから転げ落ちて姿を消してしまいました。その後、この若侍某の血縁の者が相ついで、この激流の箇所で命を失ったと言うことです。しかも、いずれもここで死んだ者は、姿を見ることが出来なかったと言われています。その後、人々は誰言うことなしに、このあたりを桶底と呼び、桶底の主は良介だと噂をするようになりました。
最近、潮流や上流から流れてくる砂の堆積の関係で、当時とは大分様子も変わっていると思いますが、それでも人々はこのあたりを桶底と呼び、一度入ると、浮き上がることが出来ない魔の箇所だと言って恐れております。

所在地:今治市天保山町

79.五郎兵衛と太鼓

昔、四国八十八か所五十八番の札所作礼山の仙遊寺(真言宗)に、天智天皇が奉納されたといわれる虎の皮の太鼓がありました。この太鼓は、竜宮から上ったものだといわれ、これを叩けば遠く桜井の沖あいまでなりひびきました。ところで、不思議なことにこの太鼓の音がすれば、籠宮から上った太鼓ということからか、魚にとってはご利益があったのでしょうが、漁師にとっては

さっぱりで、殆ど漁が出来ませんでした。桜井に五郎兵衛という筋骨たくましい漁師がいました。元来、短気な性格の持ち主であった彼は、ある日、この太鼓が邪魔なのだと、出刃庖丁を片手に山頂まで一気に息をはずませながらかけ上り、仙遊寺の縁側に置いてあった太鼓を、ズブリズブリとさいてしまいました。してやったりと、気をよくした彼が小走りに山をかけ降りていますと、急な坂のところでふとしたはずみに、石につまずいてころび、持っていた出刃庖丁が、運悪く自分の胸に突き刺さって、その場で死んでしまいました。その後、暫くの間、太鼓は雨ざらしになったまゝ縁側に置かれていました。ところが不思議なことに、この仙遊寺の信者であった中寺の某女に、ある日、夢で「この太鼓を早く箱の中へ収めてくれるように」と言うお告げがありました。早速箱をつくって収めました。また、それから後、別に新しく大きな太鼓をつくりました。この古い太鼓は、その後長い間に、皮は殆どなくなったものの虫ばんだ胴が箱に入ったまゝ残っておりましたが、今から四十数年前の昭和二十二年に山火事にあい、新しい太鼓とともに惜しくも焼失してしまいました。なお、この五郎兵衛が転んで死んだあたりの坂を、今でもこの附近の人達は「五郎兵衛坂」と呼んでいます。この五郎兵衛坂は、四国八十八か所五十九番の札所国分寺に向かうまでの、作礼山の新谷の方へ降りる途中にあります。
真偽のほどは別として「五郎兵衛坂」の名のおこりは、五郎兵衛という人が開いたところから来ているのだというように説く人もいます。

所在地:今治市玉川町別所

80.馬の急死をあてた吉山権七

元祿時代(1688~1704)の昔、今治藩に吉山権七という侍がいました。山城の国(今の京都府の南部)の出身で、馬術、砲術の指南役(教授する役)をつとめていました。権七は、馬術が上手なだけでなく、馬の調子を見ることにもすぐれていました。ある日、殿様が、馬に乗られた時、権七は馬の様子を見ていましたが、急に羽織をぬいで、殿様の近くへ走り寄って、「お殿様、早く降りてください。その馬はごたいばを見ています。」と言うと同時に、馬の頭に羽織を着せて、殿様を即座に馬から降ろしました。殿様が馬から降りると、ほとんど同時に馬はばたりと倒れて死んでしまいました。ごたいばを見るというのは、魔物が空中を駆けているのを馬が見ると即座に倒れるということだそうです。また、馬の急病だともいわれます。ある人の説によると、これは石糞(胆石または腸内の結石のこと)の害だといわれ、人によっては見破ることが出来、治療法もあったようです。権七はそれが出来たわけで、馬に乗る時は、常に体調を整え、石糞の症状はないかどうかを調べたそうです。
なお、この権七は、鉄砲を腰につけたまま鳥を撃ち殺したり、遠距離にある板戸の真ん中を射抜く砲術の名人としても有名だったといわれています。

所在地:今治市通町

81.紀州の人の墓

昔、大浜の沖で船が遭難し、乗っていた一人の男の人が湊の砂浜に打ち上げられました。ある漁師がこれを発見し介抱しましたが、そのかいもなくとうとう死んでしまいました。ところが、どうしたことかその家に不祥事が続きました。そこで拝んでもらったところ、てい重に祭ってほしいという事でした。ところが、その亡くなった人の名前や詳しい住所がはっきりしません。所持品などからやっと紀州(今の和歌山県)の人であることがわかりました。そこで、『紀州之人』と刻んだ石碑を建てて手厚くその霊を弔いました。それから後、不祥事はなくなったということです。
このお墓は、大浜の燈台の下の瀬戸の海を眼下に見下ろすことのできる所に祭られています。

所在地:今治市湊町

82.天皇松の由来

国分(旧桜井町)の四国八十八か所五十九番札所の国分寺(真言律宗)境内に天皇松と呼ばれる松の木があります。寺伝によると、元の松は、聖武天皇(奈良時代、第四十五代の天皇、国ごとに国分寺、国文尼寺を建てることを命ずるとともに、奈良に東大寺を建て大仏を完成させたことで特に有名です。)が孝謙天皇に位を譲られ、上皇になって間もない天平勝宝三年(751)にご病気になられた時、新薬師寺で四十九人の高僧が集まって、ご病気平癒を祈る大法会がありましたが、桜井の国分寺でもこれに合わせて同様の行事を行い、その際一本の松を植えたそうです。これが俗にいう天皇松(一代目)です。
その後、代わりの松が植えられ、大人が五、六人でかかえるくらいの大きさにまで成長しましたが、白ありが巣くって傷んでいた

上、昭和二十八年(1953)の台風で倒れ枯れてしまいました。今の松は、その後、天皇陛下がご来県の時、お手まきになった松を植樹したものです。現在の松は三代目のものではないかということですが、正確なことはわかりません。古木も寿命があるのですから、子松、孫松と代わりの松を植えておくということは、語り継がれてきた伝説を継承していく上で意義のあることだと思います。

所在地:今治市国分

83.三本松の由来

桜井の旦に三本松というところがあります。地名のとおり、天満宮の御旅所に三本の松の木があります。この松は、いずれも二代目だそうで、真ん中の松は寿命がきて、明治の終わり頃に、両端の二本は第二次世界大戦末期に供出のためにそれぞれ切られ、その跡に植えられたものです。元の松はみなかなりの樹齢で大人が三かかえもするほどの巨木だったそうです。誰がいつごろなぜ三本の松を植えたかは、確実なことはいえませんが、一代目が相当昔に植えられたことと、小字名がこの三本松にゆかりがあることだけはほぼまちがいないようです。なぜ植えたかについては、村人が樹齢の長いのにあやかって、村がいつまでも栄えるようにという願いをこめたものではないかといわれています。また、三はおめでたい数字なので三本植えたと思われます。三方を田園に囲

まれた位置にあって、かなり目立つ高さにまで成長しており、遠くの方からでも見渡せることができ、三本の松のありかを示す目標またはシンボルになっています。
この松の木の下に、明治時代の地元の郷土の俳人で松尾芭蕉を崇拝した広川九圃(本名、広川定四郎、地元旦の出身)が八十八の米寿を記念して建立した句碑に有名な松尾芭蕉の「古池や蛙とび込む水の音」が記されており、何ともいえぬ趣を添えています。

所在地:今治市旦

84.阿方の一本松の由来

昔、阿方の農協の近くに、松山の札の辻(西堀端の本町に近い所)から十里(四十キロメートル)に当たる所に、加藤嘉明による里程標識のため一本の松の木が植えられていたそうです。人々は、この松を阿方の一本松と呼んでいました。その後、寛保元年(1741)に『松山札の辻より拾里』と書いた立石が建てたれました。別に、札の辻から一里(四キロメートル)ごとに一里塚という立石も立てられました。―札の辻は現在の松山の西堀端の北すみに当たり、松山藩里程の基点になる所です。現在、札の辻の石も見当たりません。―これらの松や立石は、旅行者の便宜をはかるために立てられた道しるべに当たるものといえましょう。一本松は、遠くからでも見ることが出来るので、旅行者にはたいへん役に立ったようです。
昔は、このあたりは